「雨蛙」志賀直哉

その時彼は何気なく上を見ると、電柱の中程に何か青い物を認めた。何だろう?そう思って直ぐ雨蛙だという事に気附いたが、森の傍で何故こんな柱などに住んでいるのだろうと考えた。雨蛙はその電柱が未だ山で立ち木だった頃、其処から小さい枝が生えていた、その跡が朽ち廃れて今は臍のような小さな凹みになっている、その中に二疋で重なり合うように蹲っていた。その様子が彼には如何にもなつかしく、又親しみのある心持で眺められた。その少し上に錆びた鉄棒の腕があり、蜘蛛の巣だらけの電球が道を見下していた。雨蛙はその灯りに集まる虫を捕る為、こんな所につつましやかな世帯を張っているのだ、これはきっと夫婦ものだろう、そう思った。



 この小説は、造り酒屋を若くして継ぎ、所帯まで持ちながら、文学にウツツを抜かしている男(賛次郎)が、最終的には蔵書を焼き捨てるに至る話なのだけど、抜き出したのは、その前日にA市からの帰り路で、彼が目にしたものである。
16頁の短い小説であるのだけど、冒頭には唐突に地理的な説明がはいっていて、短い小説の割りに地誌的なことが長々と、まるで、指輪物語ホビット庄の説明のように書かれているということもあって、電柱はHという町と重ねられて、暗喩として読めてしまうのである。
因みに暗喩について佐藤信夫は書いている、”二つの観念がある種の類似性をもっている場合、その類似性にもとづき、一方の観念に固有のものとして決められている記号[表現]をもちいて、その一方の観念をあらわす手法。それはあらわされるほうの観念にその固有のものとしての記号がまだ指定されていないから、という理由による場合もあるし、またそのような借用記号をたよってその観念を感覚的にいっそうとらえやすいものにしたいから、あるいはいっそうこころよいものにしたいからという場合もある。”(佐藤信夫「レトリック感覚」)

”A市から北へ三里、Hという町がある。道に添うた細長い町で、生垣が多く店は少なかった。住民は大方土着の旧家で、分家々々と分かれて殖えた為に百戸余りの家が大体五つか六つの姓に含まれた・・・”から長々と小説冒頭に説明されたHという町と、そこでの夫婦の生活が、いっそうこころよいものとしてとして、賛次郎の目に映ったということが、上記に抜き出した記述によって、表現されているということになるのか。
言い換えれば、その差異に賛次郎の内面を読者は読むことになるというほうがいいのかもしれない。

 なにが、そうさせたかというのが物語であって、抜き出したシーンの前日には、A市の公会堂で劇作家Sと劇作家Gの講演があり、当初は夫婦で出かける予定であったのが、急な用事で賛次郎がいけなくなったため、妻せき一人で行かせた結果、せきが小説家Gと不義をはたらいたらしいということに、講演会の翌日に遅れてA市に行った賛次郎が、気がつくという出来事があって、その帰り路に、上記のように電柱に雨蛙を見つけるのである。
もともと”学がない”と書かれている妻が、文学などに関心があるわけでもなく、いうならば、賛次郎の文学への欲望が、彼女を小説家Gへ向わせることになったようで複雑である。

 また、賛次郎の事の察し方というのがよくて、せきをはじめ誰も、せきと小説家Gとの関係を明言しているわけではないのである。せきは帰り路で”不機嫌に黙り込んで”いたり、”ぼんやり遠い一点をみつめて歩いていた”りするだけなのであって、ここらへんはまるでフランスのリアリズム小説みたいで、作者的には技の出しどころだったのではないだろうか。
穿ったいいかたをすれば、人間つねに表出的なのであって、私達は、根本的に、隠し立てのない表出的な行動をとる存在として生まれるのである。感情とは内面性である以前に状況に対する即時的反応であるのであって、言葉を発しないせきの様子をみていて賛次郎には、ことが判ってしまうのであるのだけど、前夜についての質問に答えないせきを、”抱きすくめたいような気持ち”になったり”せきが堪らなく可愛い。”と”発作的な気持ち”になったりするのである。
どう読むべきなのか判らない、下種な読みとしては、自分の妻が小説家Gに欲望されたということが判って、より一層いとおしくなったということなのか。

 あるいは、室生犀星幼年時代」(http://d.hatena.ne.jp/nuj-a/20071231/1199077432)における地蔵と同様に、雨蛙は移行対象として、自分の内側にあるとも外側にあるともいいにくい存在として、賛次郎の前に、現れたものとして読むべきなのかもしれない。蔵書を焼き捨てるといういことも見方によっては去勢と読めないこともないのである。


小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

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レトリック感覚 (講談社学術文庫)

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