日記

 気になることがあったので、”ボヴァリー夫人”を本棚の底から引っ張り出して、ペラペラと拾い読みをしてみると、登場人物が、兎に角、いろいろな事を考えたり、思ったり、話したりするので、改めて驚く。
そして、そういう人物が複数いると、ときには嘘をついたり、相手をはぐらかそうとしたり、そしてあるいは、その思うことが、機械の歯車がずれてしまったかのように行き違ってしまったりして、もどかしさを感じたさせたしながら、どんどん頁数が嵩んでいく。
こういう世界には、志賀直哉の短編小説に出てくるような、無口で何も考えていないような女というのは、居場所がないようにも思われるのだけど、相補う存在のようにも思えないこともない。
そもそもが、”ボヴァリー夫人”を基準にすれば、志賀直哉の小説ではメインの登場人物まで、何を考えているのかよくわからなかったりもする。
この違和感を文化論に回収するのも何だし、というか志賀直哉は躓いたとはいえ、一時期はクリスチャンであったわけで、あるいは、似たような小説といっては乱暴かもしれないけど、小川国夫だって派閥こそ違えどクリスチャンだったりもするわけで、単純な文化論には警戒するべきであろうと思う。