「日はまた昇る」ヘミングウェイ

そういえば、ヘミングウェイの小説の過酷さは、時勢にあっているのではないかと思った。というか、その小説に描かれた過酷さは、実は、当初、経済生活の過酷さの隠喩として読まれていたのではないだろうかと思ったのである。
なんといっても、ヘミングウェイがコミットしたスペイン戦争はファシズムコミュニズムの戦争だったのであるし、勿論、結果的にはヘミングウェイが肩入れした左派は敗れたのである。しかしながら、長い目で見れば、その後の世界は、1980年ごろまでは左翼的であったのようにも思えて、あるいは日本ということを考えれば、20世紀の間はそのままであったようにも思えて、その空気のなかで自分はこの人の書いた小説を読んだから、逆に感銘を受けなかったのではないだろうかと思って、読み返してみたくなったのである。

でもって、”日はまた昇る”を読み返した、この小説はスペイン戦争前に書かれたものであるのだけれども、そもそも、私の観点があまりに暈けているのか、なんかチグハグで、あまり感銘を受けることもなかったりする。
やはり、基本的には、スペインというエキゾチックな観光地を舞台にした恋愛小説であって、主役の一人は性的不能者であるのだけれども、それ以上のものを求めるべきでもないのかなとも思ったりもして、空振り感があった。

例えば、第一次世界大変に従軍して、負傷により、性的不能になったアメリカ人というと、おもわず彼にアメリカ自体を表象させたくなるのだけれども、そう思って読んでも、先に繋がっていかないのである。
しかし、最初から恋愛小説として読んだとしても、私はチグハグ感を持ったかもしれない。例えば、お祭りの準備段階で、牛が運ばれてくるのを主人公達が観にいく、そこには、興奮した雄牛と、どこか冷めた去勢牛がいたりして、その様はまるで、主人公達の内情のようであったりするし、あるいは、先々、彼らの身に起こることの先触れになっていたりするようにも思えるのだけれども、妙に”可笑し味”を感じさせてしまうのである。
性的に不能な男が観ている目の前で、去勢牛が雄牛に突き飛ばされるというと、なにやら”キツイ”ものがあって然るべきではないかと思って読んでいるのだけれども、可笑しい、でもって、これはいったいどうしたことなのだろうと思うのである。