デュマス展 

先週だったかデュマスの展覧会を観にいった。
もともと、期待してはいなかったのだけど、3階の展示を見ているうちは、それにりに欧州の状況を考えたりして、というか、これは目の前のデュマスの絵から、目の前に存在していないところのヨーロッパの同時代の絵を思い浮かべることで、冷静に考えればそんなことは出来る訳ないのだけど、同時代の”高評価の画家”とか”時代を代表する画家”とかそんな風に云われると、そういうことに考えが自然にむいてしまう。因みに、何年か前にタイマンスの展覧会を見たときも同じようなことを考えて、欧州は駄目なんだと勝手に早とちりしてしまったことがある。
自分はこういう言葉は使わないように気をつけようと思う。

律儀なまでに写真や印刷物(なかには写真からリヒターが描いたものを更に写真、印刷を通して描いたものすらある。)からおこされた像を描いているのだけど、描法的には、何十年か以前のフォトレアリズムやポップアートのようにはそのことを強調しない。写りこみを丹念に書き込んだり、焦点の外を描いたり、引き伸ばして顕在化するドットを描いたりはしていない。
むしろ、水彩における垂らしこみとか、油絵の具における殴り描きは、そのこと(写真や印刷物からイメージを起こしていること)を偶に忘れさせるものであったりする。勿論これらの描法とて、この作家の考案物というわけではなくて、それこそ80年代のクレメンテのような作家の絵にも双方ともみられたものでむしろ広く使われている解決法というものなのだろうと思われたりする。

人体表現に関する関心は(このような関心こそが彼女の絵を特別なものにしているのだろうと勝手に思っている)、絵に主題を希求する気分から生じるのであるように思われる。(逆にそうでなければ、それこそフォートリエのようにキャンバスに石膏をもったり、線をひいたりするだけでも、人体は表現できるのであるし、その方が見方によってはよほど洗練されているようにも思われるのである。)所謂、分節言語といわれるものを絵画に求めて、色彩=音素として、形態素を人体表現により確立し、象徴的な次元を確立することで現実を表現したい、そういう願望がどこかにあるのだろうと思う。ここで云う現実とは所謂リアリズムという言葉で名指されるそれではなくて、夢現ともに非現実であるとした上で、精神分析医が患者に開示してみせる類のものである。そして、歴史上、絵画が偉大であるとされていた時代以前の絵にはそういうことが可能であったと思わせるものがあったりもするのである。
勿論、デュマスの絵はそんな次元は確立出来ているわけもなくて、結果して出来不出来は使われる色彩と彩色法に依存しているようで、水彩油彩問わず、彩度の低い色彩が静かに彩色される絵のみが印象に残っているのだけど、総じて水彩の方が出来がいいように思う。

しかし、三階から観始めて一階に降りた頃には、作品に低いレベルでの試行錯誤しか見られないことにうんざりとしてしまったというのが正直な感想だったりする。
もしかしたら、作家自体は全く無自覚に制作をしているのではないかという気になってしまった。

会場で放映されている作家紹介のビデオで、シドビシャツの唄うマイウエイがバックに使われていて多いに白けた。ポールアンカが作り、年をとったシナトラが唄って大ヒットしたこの曲を若いパンクロッカーがカバーする。年をとった往年の大歌手が自分の人生に思いを馳せて歌い上げたバラードを、若くて、それが売名のためとはいえスキャンダルまみれで、麻薬まみれのロックミュージシャンが歌うのが妙に面白くて受けた曲だと思ってたのだけど、ポール・アンカもシナトラも知らない人達にも聞きつがれているとすればポールアンカの原曲がよかったからだなと最近は思う。


そうそう、あと七人の小人が、横たわり手にカメラを持った裸の女性を覗き込んでいる絵があったのだけど、この絵について、絵の前で、詳しそうな中年の女性が解説をしていて、彼女によるとカメラを持った女性は写真によって制作をするデュマス自身であり、小人は彼女の生まれたばかりの赤ん坊である。女性の腕が折れているのは、彼女の貧窮状態を意味しているとのことであった。まるである時期以降のピカソの絵についての解説のようであるのだけど、このような解説は図像があれば幾らでも出来てしまうもので、どうでもいいのだけど、似たような構図が藤田の絵にあったと思う。
横たわる裸の女性と覗き込む動物の絵だったと思うのだけど、図版が見つからない。御伽噺の空間に性的な女性像が描かれているということで、私の頭の中で同じカテゴリーに分類してしまったと言うだけかもしれないのだけど気になる。もちろんどちらも絵としては然程関心もない。