日記

アリアドネが望郷の念をこめて”かなしくてやりきれない”を唄っているとそこにテーセウスが現れる、無茶な話であるのだけど、何故そのような無茶なストーリーになったのかという理由は原案者である私には分からなかった。また誰が自分の台本をそのように修正したのかも分からないままだ。
自分が中学生の頃のことで、上級生を送り出す会において私が提出した台本が採用されたことに当惑を感じながらも音響スタッフとして仕事をしたのだけど、私の提出した台本は全く書き換えられていて、結局、私は原案者に格下げされた。(酷い台本だったので当然だと今では思う。)
最近、この”かなしくてやりきれない”という曲について、逆転するとあの放送禁止の”テムジン河”になるという逸話を知った。私は単に隙があればAC/DCを校内放送で流すことしか考えのない放送委員であったのだけど、それと同じようなセンスの教員が紛れていたということである。そして自分の名を生徒のうしろに隠してなにやら怪しいことをしたということなのだろう。

いきつけの古本屋にて、やたらと声の大きいオジサンが、テレビで放送された”ぱっちぎ”を見逃したことをしきりと残念がっていて、それにも関わらずこの人は映画の内容について詳しいようで、だったら観る必要なぞないではないかと端で聞いていて私は思ったのだけど、結局この人はDVDを持っていて、なおかつDVDでは編集ができないので、TVからビデオに落として編集をしたかったのだとのことで、何のためにそこまでするのかという疑問もあるのだけど、見逃した理由が修学旅行のための事務作業とのことで、職業が中学校の教員と云うことが分かり”先生”の正義感のブレのなさに戸惑いを感じた。