[美術]セザンヌ3

未だセザンヌについて書くことがあると思うとすれば、既に書かれたれたものを読み落としたか、読み飛ばしてしまったせいかもしれない。地塗がかわくまでのあいだのメモ、
例えば、デザイナーであれば、セザンヌが屋外を描く中で習得した青い絵の具の用い方を、「後退色として青」というかもしれない、或いはそれを聞いた画家は、瞬時に矮小化だと思うかもしれない。数限りない、透明水彩によるスケッチ、屋外における制作、アトリエの窓から屋外を描いた経験、等々、セザンヌが費やした厖大な時間を、そんな一言に収斂させてしまうのは冒涜行為だと、当然のこととして反論を用意するだろう。物体固有の色彩としての青と、風景の際深部としての空の青の用いられ方のちがい、肖像画のおでこに用いられる青と静物画の深部に用いられる青の類似性等々、そして何より、同時代を生きたモネの後期の絵に比較すれば、単位画面における青い絵の具の使用量は少なそうなのである。
自分の家にモチーフの庭を作り、その中で制作に勤しんだモネの絵と、遠くの山をまるで望遠鏡で覗いたかのように描いたセザンヌの絵の比較について、もし自分を未だに画家である思うのであれば、一度自分なりに行ってみなければならないのだろう。しかし、結構な労力になるのだろうか。
パレット上に並べられた複数の色彩のあいだに対称性があり、モチィーフとしての世界、質感として触覚のうちに捕らえられるところの、世界を連なりのうちに構成する複数の肌理の間に対称性がないのだと、自分としては思いがちなのだけど、どうやらそれが違うらしい。
締め切りがあるわけ訳でなし、ぼつぼつと、とは言え人生思いの外短そうで、気が滅入る。