デューヴについてのメモ

デューヴ『芸術の名のもとに』は購入していなくて、その代わりと云ってはなんだけど、本棚のそこに眠っていた批評空間(久々に読んでみても、やっぱり私には難しい、何ゆえそんなにまで背伸びをしなければならなかっただろうと、というか難しいけど、そのうち理解できるようになるだろうとか、そしてそれは自分にとって有益なことなのだと、思わせるものがこの辺りにはあったのである。)にデューヴの文章が載っていたので読んでみたのだけど、この、私には眩暈を起こさせるような文章は、なかばボケをかましつつパフォーマンス的に書かれたものではないかと、いや、そう読むべきものではないかと思えたりもするのである。(そもそも、今回改めて読もうと思ったのは、何処かのHPで、デューヴの文章をあたかもなにか規範のように参照している文章を見かけたことへの違和感からなのであるのだけど。)

デューヴは書いている。

 美学的判断の二律背反は、以下のように書けば、自然に解決する。

 正命題。「これは芸術である。」という文章は、芸術という概念に依拠するのではなく、
 美学的/芸術的な感情に依拠する。
 反対命題。「これは芸術である」という文章、芸術という概念を前提とし、
 美学的/芸術的な理念を前提する。

 正命題と反対とは、それぞれ両立可能であり、カントとデュシャンに適合し、カントと
 デュシャンという名が囲い込むモダンな歴史空間にふさわしいものである。

そして、よりひきしまった、またより一般的な定式においては、わずかに異なった仕方で、書かれ、また、解決されることになるとして、

 正命題。芸術は概念ではない。それは固有名である。
 反対命題。芸術は概念である。それは固有名としての芸術の理念である。

私のように浅学のものはここでつまずいてしまうのであって、というかこれは、絵を描く人間の読むものというよりは、哲学を勉強しているような人が読むべき文章なのだろう。そして、それは恐らくは固有名をめぐる議論の歴史を再学習するという用途においてではないかと思われてしまう。

柄谷行人は、その歴史の説明(探求Ⅱに掲載)にフッサールの固有名についての考えに対する滝浦静雄の批判を加えている。

 ・・・しかし、ここで注意すべきことは、そのような個体の個体としての借定は、
 名称そのものがするのではなく、
 その名称を使用するわれわれがいわばその名を借りてするのだということである。
 だからこそ、われわれにとって全く未知なものについての固有名は、
 われわれに何ものも示してくれないのである。
 個体の統一的把握はわれわれ自身のうちにわるのであり、
 固有名の個体への思念とは、
 単に固有名を媒介にしたわれわれによる個体の指示を意味するにすぎないのである。

現代アートの閉鎖的、自己言及的なつまらない一面が見えてくるように思われるのであるけど、そこまで酷くはないだろうとも思うのである。もう少し読み込んでみるべきなのだろうか?