セザンヌ 1

週末の断薬に備えて、疲れるためにセザンヌを見に行く。
単に疲労するという目的であれば、銅版画や写真展の方がよかったのかもしれないのだけど、やはり今や完成することなく打ち捨てられた感のある近代絵画の可能性を最もかいまみせてくれた巨匠の展覧会がいいということで、前にバーンズコレクションでみた時も絵の密度の高さには度肝を抜かれた感があったし、形態と色彩と奥行きに関する果てのない論理的思考と、詰め将棋の如き実践のプロセスにはやはり惹かれるものがあるので六本木へ、そう言えば、手続きをすれば、関係者dayに金を払わずに行くことも出来るんだよなとか券売所で思いだしたのだけど、手続きをしてないところがやはり鬱病の億劫感のなせるところで、このまま生きていてもしょうがないなぁなんて思ってしまうのも、鬱病のレールに乗った思考。プラス思考に転じるために、関係者dayなんかに下手に行って、詐欺師的教育者やら恥の書き捨てライターやら、ナンパ目的の学芸員、芸術品転がしキュレイターみたいな気分の悪い奴らに混じるのも、病気を悪化させる可能性が高いので、これでいいと思いなおす。しかし切符売りは自販機にした方が経費の削減になってよくないかと当たり前のように思うのだけど、失業者を増やさないことで美術が世に貢献していると知らしめる目的もあるのだろうか、否、美術に高邁な内容というものがあるとするなら、人件費は少しでも削減して入館料は下げ少しでも多くの人々に美術に親しんで頂くのが正論だろう。
建物の外観は隣の大学院大学の方がいいと、来館する度に思うのだけど、誰の設計なのかということは後回しにする。

1860年代の中頃には、既に時代遅れとなっていたクールベはともかく、ドラクロアルーベンスに対する関心は、不可解で、固有色や個別の物体に関する執拗な関心、それは先行する印象派の描写方法の物体の輪郭の描き方とセザンヌのそれを比較すれば明らかに異なるものなのだけど、無関心の対象こそがその人間の本質なのだと、第三者として理解してみると、ドラクロアよりは無関心の対象であったアングルやプサンの方にその後セザンヌの絵に類似するものを感じる。
だいたい静物画を描くのに、前方の物体と後方の物体の関係を、後方の物体側に前方の物体の輪郭線をはみ出させて、しかも後つけで太く黒い絵の具を盛り上げて描くというのは、あまりに不器用な作為ではないかと思う。ここで字数オーバー