セザンヌ 2

問題にしていたところの絵は、“砂糖壷、洋梨、青いカップ”で、この絵における黒い絵の具の用い方が気になったのでメモを残さなくてはいけないという気になったのだけど、書きかけのまま、一週間たってしまった。
しかし、セザンヌがこの小さな絵、タテ30センチ、ヨコ41センチの絵の制作に5年かけたことを思えば、大した問題でもなく、その時間のうちに動機を失うのであれば、ほうっておけばよいのであって、世の中にはとうに動機を失っているのに、形式的に完成された絵が多過ぎるし、文章も同じく多過ぎると思う。
ブログの多くが読むに耐えるのは、自分に対する正直さ故であって、皆唐突に始まって唐突に終わる、あるいは放り出される。
しかし、問題の絵は後のセザンヌの絵に比べると、不誠実のように見えてしまうことがある。不誠実ということは嘘があるということであって、それは言語的であるということである。言語がなければ表出があるだけであり、表出はコントロールが難しく、せいぜいが抑制させることができるか否かというところである。
絵において言語的であるとはどのようなことかといえば、説明的であるということであると思う。
ナイフを多用して描かれた静物画といえばクールベの諸作が連想されるし、セザンヌもそれらを意識したものと思われるのだけど、一見して異なるのは、対象に対する欲望の表出のされ方であって、クールベが野卑なまでに豊饒にマッシブに果実を描ききっているのに対して、セザンヌは抑圧的なのである、画面から転がり出そうとする洋梨をナイフで抑えつけてしまって、それでも飽きたらず、砂糖壷が洋梨の後ろにあることを説明するがごとく黒い絵の具の厚いパートを壷の下半分にナイフで塗りつける、あるいは、洋梨の乗っている皿の影の部分も然り、洋梨同士の隣あった部分も然り、視点自体が砂糖壷の蓋と同じ高さにあることから奥行きの表現が難しかったのかもしれないのだけど、マネはすでに奥行きを欠いたような絵を描いていた筈であり、セザンヌもそれを知らなかった筈もないのだけど、 黒い絵の具の分厚いパートで後から説明するかのごとく、描き加えていかないと気がすまない様子であったりするのである。結果として個々の物体の固有の色彩と黒い絵の具の固まりのごく素朴な関係の繰り返しに空間が収斂していくしかないのだけど、結果としてのこの簡素さと禁欲的な雰囲気が自分の気を惹いて止まないのである。 ここで字数制限