日記

 オシム監督の横にいる千田通訳という人は、東大を出て赤旗新聞の記者をしていたという経歴らしいのだけど、漫画家である吉田戦車の従兄弟ということらしい。そう思ってみるとこの人の道具立ては立派でありながら泣きそうな表情は、吉田戦車のマンガのキャラそのものであったりするように思えてくる。またカタール戦後、監督の怒りに泣き出してしまい通訳ができなかったというエピソードもまるで吉田戦車のマンガである。なんて書いていると馬鹿にしているのかと思われるかもしれないのだけど、ジャーナリストとしてのこの人の活動はHP(更新は止まっているみたいだけど)を見ていると興味深くて、このギャップがまた吉田戦車的に思えたりするのである。


 まるで、遣り残していた夏休みの宿題に取り掛かる気分で、選挙関連の報道をみているのだけど面白くなくて困る。そもそもが党首討論と銘打っていても、討論でもなんでもなくて事前に暗記したコピーライターの文章をズラズラとまくし立てるだけのような様子で、とおしてみていても意味不明だったりする。そもそもが、自分に向けて質問が発せられても、単に自分に時間が与えられたぐらいの意識で、質問にはまともな回答もせずに、また、用意をしてきたかのようなコピーをズラズラと語り始めるというのは酷い、というか電波の無駄使いだと思う。
きっと録画をした上で部分的に解体してはじめて、何らかのメッセージが見えてくるというものなのだろう。
そもそもが、政治にはそれなりに切実なものを感じているから、夜遅くにTVを観たりもしているのだけど、観終わったあとのこの失望感というものは、まるで、現代アートの鑑賞感のようであったりする。
というか、党首だけみているのであれば、与党がずば抜けてIQが低くみえるというのは、この何代かに共通していることであって、そこに政治のなんらかの本質があるのだろうと思う。妖怪の孫であるという以外なにもない空っぽな器のような存在。国民には道徳を押し付けながら、自分の身内の行状については問題なしとして庇い通すチグハグさ加減というのも、もしかしたら正直なのかもしれないけど、自分の身近のMさんとかお祖父さん以来のつきあいのAさんについてはイメージが持てるけれども、国民という抽象的な言葉については、イメージを持つことができないということか、あるいは政治家として自同的なイメージを演出することができないか、またはその必要は感じていないということで、底の抜けた政治家として警戒されて然るべきなのではないだろうか。かといって野党第一党の党首のように古典的な悪辣政治家を演じろというわけでもないのだけど。
 ケインズ以前の経済学にはマクロという概念がないとのことで、新古典主義者は国家の経済への介入を不純なこととして嫌うとのこと、国家は貨幣の発行量の調整以外の経済政策をとらない、但し戦争は別、という噂があって、事実アメリカとイギリスはいつも彼方此方で道義不明な戦争をしているわけで、日本も憲法をかえたら、また禄でもないこと仕出かすに違いないというのは左翼の取り越し苦労、あるいは、日本において左翼団体を維持するための共同幻想のようなものではないかと私も思っていたのだけど、最近はどうも本当に危ないのではないかと思うようになった。
しかし、何故戦争をしたらいけないのかとか、何故中近東に攻め入って石油を確保したらいけないのかと問われた場合自分が説得力のある回答を出す自信もないのである。