ウサギさんへ

世の中には、写真は本当に溢れていて、その存在様態は、当然のこと絵より多様であると思う。というか多くの場面で絵は写真に代替わりさせられてしまっているのだろうと思っているのだけど、勿論、それらすべてが同じ価値があるとか主張するつもりはなくて、というか、換金でもしなければ価値なぞ比べること自体が難しいのではないかとも思っているたりする。
しかしながら、広告、報道、嗜好、いろいろな場に存在できているということは、考えようによっては幸福なことで、その中で精一杯生きられるのであれば、それでいいではないかと思うのである。
はるき悦巳が、もともとは絵描きであったのだけれども、絵をかく場所とお金の問題を解決するために漫画家に転進したとのことを、どこかで語っていて、要は絵についてはそのくらいしか存続できる場所はないということなのであり、それを考えれば写真というのは幸福な状態なのだと思う。

自分がブログに貼り付けた写真がブログという地面から引き剥がされても存続できるかと想像してみることすら出来ないのだけれども、まあ、例えばの話として、なんらかの場が用意されているとして。、あるいは、既に存在してしまっている何らかの場が、比較可能であるという想いを起こさせているのかもしれないのだけれど、その場合、ややこしいのは、この場自体がまた歴史を具えているであろうということなのであり、その場所自体がまた独自な価値基準を設けているだろうということであるのだけど、ここら辺のことは置いておくとして、

ブログに張り付けた未だ趣味ともいえないような写真について、プロカメラマンの写真と比較されるということは光栄なことであるのだけど、困ったことはこの人が、”写真は行動”という誰のものもわからない紋切の言葉を繰り返すのみで、その実を説明する気が一向にないことで、なにを言いたいのかさっぱりとわからないことなのであるのだけど、普通、表現の世界で“行動”と言う言葉が使われる時、はそれは積極的な政治参与を意味することが多いのではないかと思う。
倫理的なテーマの設定と超自然的というか理性的な判断を観者に迫るというのが、それらの作品の特徴であったりすることが多いのではないかと思う。

今現在、行動主義が値崩れしているとすれば、そういう態度がイラク戦争時のブッシュの発言を思い出させるからではないのかと、少なくても私は思っていたりする。
フセインの圧制からイラク国民を救うとかなんだとかの発言のもとに行われたことについて、本当のところが判断できるようになるまでこの状態はつづくのではないかとも思えてしまうのである。
屈強なカメラマンがイラクなりチベットなりに行って、危険を冒して撮影してきた光景は感動的であるのだろうけれども、できればそれと同時にイラク人の撮影したイラクの日常の光景なり、それこそチベットの女の子の撮影した日常の写真なんてものも観てみたいと思うのだ。
当然、それらは共存可能だし、お互いに相手を必要とするものであろうとも思うのである。


でもって、うさぎさんについては、写真について語りたいことがあるのであれば、人のブログに脈略もなく絡むのではなくて、まずご自分のHPで語ってくださいな。そのほうが説得力がもてるのではないかと思います。もっとも、その意見がご自分の写真と矛盾しなければの話という条件がつきますが、
また、自分の意見と自分の写真の矛盾に気がつくのであれば、ご自分が何のためにその意見をいっているのかということが分ってくるのではないかと思います。

そして、他人の言葉の断片的な流用ではなくて、ご自分の意見をご自分の言葉で、他人に分るように説明した上で、相手に意見を求める習慣を身につけて下さい。

※ちなみに、ここにはコメントは付けてくださらなくて結構です。