「母の死と新しい母」志賀直哉

病気はだんだんと進んで行った。絶えず頭と胸を氷で冷やした。
これも理由を知らないが、病床はまた座敷から次の間へ移された。で、ニ三日するといよいよ危篤となった。
 汐のひくといっしょに逝くものだと話していた。それを聞くと私は最初に母の寝ていた部屋へ駆けていって寝転んで泣いた、
 書生が慰めに入って来た。それに、
「何時からひくのだ」ときいた。書生は、
「もう一時間ほどでひきになります」と答えた。
母はもう一時間で死ぬのかと思った。「もう一時間でし
ぬのか」そうその時思ったという事はなぜかその後も度々思い出された。
 座敷に来ると、母はもう片息で、みんなかわるがわる紙に水をひたしてくちびるをぬらしていた。---髪をかった母は恐ろしく醜くなってしまった。
 祖父、祖母、父、曾祖母、四つ上の叔父、医者の代診、あとだれがいたか忘れた。それらの人が床のまわりをとりまいていた。私は枕のすぐ前にすわらされた。
 ざんぎりにった頭がくくり枕の端のほうへいってしまっている。それが息をするたびに激しく揺れた。われわれが三つ呼吸する間に、母は頭を動かして、一つ大きく息をひいた。三つ呼吸する間が四つする間になり、五つする間になり、だんだん間があいて行く。こごんで、脈を見ている代診は首を傾けて薄目をあいている・・・・・・。もうしなくなった。こう思うと、しばらくして母はまた大きく一つ息をひいた。そのたびに頭の動かし方が穏やかになって行った。
 しばらくすると不意に代診は身を起こした。---母はとうとう死んでしまった。

 翌朝、線香を上げにいった時、そこにはだれもいなかった。私は顔にかぶせてある白い布を静かに取ってみた。ところが、母の口からは蟹のはくような泡が盛り上がっていた「まだ生きている」ふっとそう思うと、私は縁側を跳んで祖母に知らせに行った。
 祖母は来て見て、
 「中にあった息が自然に出て来たのだ」と言って紙を出して丁寧にその泡をふき取った。


 物語の流れとしては、この後、父親は再婚をして、子どもを新たに三人もうけることになる。
パパ、ママ、ボクの構図は維持されるのだけど、ママの同一性は保たれず、ママとボクとの連続性も切断される。小説のトーンとしては犀星よりも抑圧的であるのだけど、不思議と叙情的であったりする。
また、犀星の小説にあるような、女性への負い目のようなもの、追い出された実母、最初の養子先で優しくしてくれた姉が望まない嫁入りをするといったエピソードに見られるような感情は、見られなかったりする。

小僧の神様―他十篇 (岩波文庫)

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