日記(メモ:総合的判断について)

坂部恵は総合的判断を三つに類別する。

一、経験的判断はつねに総合的である。なぜなら、分析的判断をつくるためには、私は私の概念の外に出ることをまったく必要としない。したがって、それには経験の保証が不必要なのであるから、経験を分析的判断の基礎とすることは理に合わぬこと。

ニ、数学的判断はすべて総合的である。
 本来の数学的命題はつねにア・プリオリな判断であって、経験的ではない。というのは、数学的命題は、経験からは導き出すことが出来ない必然性を伴っているからである。
 純粋数学という概念は、それが経験的認識を含まず、ア・プリオリな純粋認識だけを含むということを、確か含意している。
7+5=12という命題は、7と5との和という概念から、矛盾律にしたがって生じるたんなる分析的命題であると、はじめはおそらく考えられるかもしれない。しかし、詳しく考察してみればわかることだが、7と5との和という概念は、これら二つの数を結び合わせて単一の数にするということ以上の何ものをも含んでおらず、そのことによっては、これら二つの数をまとめるこの単一の数が何であるかということは、まったく考えられていないのである。
 同様に、純粋幾何学のいずれの命題も、分析的ではない。直線は二点間の最短の線である、というのは、一つの総合的命題である。なぜなら、直線についての私の概念は、量を何一つ含まず、質を含むにすぎないからである。したがって、最短という概念は、まったく新たに付け加わるものであって、直線の概念をどれだけ分析してもけっしてそれからひき出しうるものではない。ということは、ここで直観の助けをかりなければならないということであり、この直観によってのみ、総合は可能となるのである。
 純粋な数学的認識の本質的で、他のあらゆるア・プリオリな認識と区別される特徴は、それがけっして概念からではなく、つねに概念の構成によってのみ行われなければならない、という点にある。

三、本来の形而上学的判断はすべて総合的である。形而上学に属する判断と本来の形而上学的判断とは区別されなければならない。前者のうち大多数は、分析的であるが、それらはただ、この学の目的が徹頭徹尾それにむけられている形而上学的判断の、またつねに総合的である形而上学的判断の、手段となるに過ぎない。
 形而上学は、本来、ア・プリオリな総合的命題にかかわり、この総合的命題のみが、形而上学の目的をなしている。




☆カント自体を読み返そうという気には、余りなれないのだけど、カントについて書かれたもの(坂部のものであれ中嶋のものであれ、)を読んでいると、時がたつのをわすれてしまうことがある。しかし、その感想を総合できるかというと厄介であるのは私の理解が浅いせいであろうと思う。ここでも、抜書きにとどまってしまった。

8月の間は、夜寝付けずにベランダで仰向けに寝転んでいると、心地よいという訳でもなく、身体も頭も溶けてしまったように、それっきり何も出来ずに、といって眠ったという訳でもないのだけど、あっという間に夜明けを迎えることが多かったのだけど、今朝はさすがに寒さを感じて、4時には布団に戻った。