日記

人間が飯を食いだすと、先ほどまで眠っていた筈の鼬が目を覚まして、檻をガタガタとならし始める。これは人間の気を自分のほうに向けたいがための騒ぎだろうと思っているので無視していると、ますますと激しさを増すようで、歯を痛めてもかわいそうだからと檻に向き合うと、鼬もしっかりと此方に目を合わせて動きを止める。更に、目を此方に合わせたまま、頭を自分の空の食器のほうへ動かす。
此処までされれば、鼬のいわんとするところを分らないふりをすることも出来ないのだけれども、動物を飼ったのことない人は、私が動物に一方的に自分の想いを投影しているだけであって、相手がぬいぐるみであろうが、仙人掌であろうが、同じような想いを持つことが私には可能だと主張するのかもしれない。
しかし、ここで、鼬用の食物をその空の食器に入れてやると、鼬は待っていたかのように飛びつくのであって、やはり食を求めての騒ぎであったのだと納得するのだけれども、冷静に考えれば、人間が食事をし始めると自分もものを食べたくなるという鼬の反応というのは(それに気がついていても、自分だけものを食べてみたくなる人間には、サディスティックな感情があるのかもしれない、あるいはそのサディスティックな感情を隠すために、ここで、改めて驚いたかのような振りをしているのかもしれない、酷い奴と思われたくないので、念のために言い訳を添えるのであれば、鼬の飼い方のマニュアルには、餌は1日に1回と書かれているのである)、鼬が人間と自分との間に何らかの対称性を認めているということであると思うのだ。
因みに、鼬は猫なみに気まぐれな動物であって、食べたくない時に食物を与えても絶対に口にしないのであって、その鼬が体重にして50倍くらい重い生物であるところの人間が、傍で食事をしていると必ずのように食物をねだるというのは、普通に考えれば不思議で、鼬は質量ではなくて形態において自分と人間との間に対称性を認識しているということのように思えてしまうのだけれども、やはり自分の思い過ごしなのだろうか。
あるいは、ここで何らかのコミュニケーションが成立しているとすれば、それはなんと呼ばれるものなのだろう。
部屋のなかには仙人掌も置いてあり、そのボリュームをもった植物離れした形態は感情移入の対象にはなるのだけれども、仙人掌にこのような感情をもつことはない。自分が食事する度に仙人掌にも水をやらなければいけないような気持ちになったことはないのである。