日記

 ひび割れたような音で、ワルキューレの騎行が聴こえてきてビックリして振り向いたら、右翼の街宣車だった。街宣車といえば軍歌のイメージが強かったので驚いたのだけど、そう思ってみると、軍歌を流す街宣車というものを最後にみたのはいつの事だったのか思い出せない。彼らは、戦後民主主義によって、抑圧されたとされているもの、語ることを禁じられたものを、あえて大声(拡声器を通して)で語ってみせたり、歌ってみせたり(実際には録音されたものをスピーカーを通して流す)することで、私達に代わって何かを経験してくれていたのかなとか、私達に代わって彼らがそれをしてくれるおかげで<大文字の他者>に、そういう存在を教えてくれたということだろうかと、流行の解釈をしてみたくなるのは、世論が右に振れるにつれ、街宣車がぞっとするものでなくなったかのように思えるからである。

 多和田葉子の”旅をする裸の目”を読んで、面白くて驚いた。勿論、この人の小説自体、読むのは初めてのことではなくて、90年代の前半位には幾つか読んでいて、それなりに覚えていたりもするのだけど、10年で印象も随分と変わるものだと思った。あるいは変わったのは、私であるのかもしれないので、以前読んだ本を読み直してみたいと思うのだけど、これまた、本がみつからない。
”旅をする裸の目”がどんな話かといえば、ベトナムの優等生の少女が、西ドイツ人のあつかましい善意にて、拉致されて西側につれてこられ、脱走してパリに行きながらも、なにも出来ず、まるで巫女か何かを見るように、映画の中のカトリーヌ・ドヌーブを見続けるという、それだけの話なのだけど、夢中になって読んだ、もう少し頭が冷めたら、そして時間があったら、自分なりに整理してみようと思う。

 でもって、仕事の帰りにbookoffで、多和田葉子の他の本を探したのだけどみつからない、ついでに、最近よく聴きなおしているブランニューへビーズのCDも捜したのだけど、見つからない。