「窓の灯」青山七恵

 昨日、怪しげなことを書いたので、一応触れておくと、青山七恵という若い女性の作家が、覗きについて書いた小説ということで、一寸関心をもって”窓の灯”を読んだ。
モチーフとして、女の子による覗き行為が扱われているということも、物珍しくて興味を感じたのだけど、その後、橋本治の短編小説でも、女子寮の女の子達が隣に住んでいる男の子の部屋を覗くというものがあったということを思い出した(残念ながら、タイトルは思い出すことが出来ない)。
勿論、橋本治自身が男性であるせいか、彼の描いた女の子達は意識的である。
具体的には、彼女達が笑いながらも覗いているのは、隣の男の子の自慰行為であったりして、覗き行為に、明瞭といっていいのか分からないのだけど、目的があったりするのである。そういう意味では、この女の子達は、夜な夜な公園に現れるスウエットを着たおじさん達と、然程変わらないようにも思える。
あるいは、橋本治は、特定のテーマを描き出すために、公園のおじさん達を女の子に転移させたようにも見えるのである。
 それに比すれば、”窓の灯”に出てくる女の子まりもの覗きは無意識的であり、無目的なようにも描かれている。これは平たく言えば、頭が悪そうであり、混乱しているようにも見えるし、自分のしていることの持つ意味すら判っていないということであるのだけど、私見では、それ故にこそ、日本における自然主義の末裔として、この小説はそれなりの評価(一応この小説は文藝賞を受賞している)を得ているようにも思えるのである。
 また、見方によっては、まりもの存在自体も無意識的なのである。
”姉さんが私を拾ってくれたのは、二月の、わりと暖かい日だった。そのころの私は一年も通わなかった大学を辞めたばっかりで、そのせいで地方の両親ともごたごたしていて、住む場所さえ危うくなっていた。かといって建設的なことをする気分にもなれず、毎日夕方近くに起き出しては、当時のアパートの近くにあったミカド姉さんのお店で時間をつぶしていた。”
説明を加えれば、ミカド姉さんというのは、この喫茶店をどこかの男性から譲り受けてオーナー(?)になっている女性で、店の複数の男性客と気ままに関係を持ったりしているような、気ままな人間なのである。
 学校にも家にも居場所を失って、自分の生に意味を見出せない状態というのは、考えようによっては深刻なのかもしれないのだけど、この女の子が微笑ましかったり、かわいらしくみえたりするのは、本人に自覚がなさそうであるということと、実際の社会には、更に深刻な状況の人達もいることを、私達がしっているせいもあるのだろう。具体的には、学校にも社会にも居場所を見いだせなくて、尚且つ家にも居場所がなくて、狭い子ども部屋の中に、閉じこもっているような人たちの存在も、少し以前には、社会問題として報道の種になっていて、よく目にしたものである。
あるいは美大に通いながら、”アート”な作品を創っているような学生も案外に似たような存在なのかもしれない。

 物語的には、まりもの覗き行為がエスカレートするのは、ミカド姉さんに本命とも言うべき男が現れたことが契機となっている。よりによって、この男がミカド姉さんの大学時代の先生であったりするのである。まりもにすれば、家庭と学校が追いかけてきたようなものである。
抑圧に対する抵抗として、覗きがエスカレートするのである。

また、ミカド姉さんには、無目的に本屋に行く習慣があるようで、その習慣は、まりもの覗き行為と同型のものとして描かれている。小説の最初の方の頁にて、以下のような会話が見られる。
”「夜、本屋さんから出てくるとね、生まれ変わった気分になるの」
姉さんは唐突に言うと、スプーンを火にかざして引き出しにしまった。・・・・・「本屋さんから出てくるたびに、生まれ変わるのよ」
「本を買ったの?」
「あそこで買うもんなんか、ないわ」”
また、まりもが、町中の家々を覗き歩くという行為をはじめる直前に、まりもが本屋へ行くというエピソードが語られている。
”真夏の本屋は、行き場をうしなった人たちでいっぱいだった。・・・・・・・・・このたくさんの本とそれに群がる暑苦しい人々の中で、どうやったら生まれ変ったような気分になれるんだろう。”
まりもは、生まれ変わるために、ミカド姉さんを真似て本屋へ行き、目的を果たせずに町中の家々を覗き歩くという行為を始めたようにも読めるのである。さて、移行対象というのは探されるものなのであろうか? あるいは、覗く大概の窓のなかに、それは見つかっているのかもしれない。
覗き現場を先生に見つかったまりもは、先生に”「あの人が・・・・・・あの人がちゃんと生きているなって思いませんか」”と問う、逆にいえば、抑圧によってもたらされた、自分が”ちゃんと生きていない”という自意識が彼女を覗きに駆り立てているのである。
これは、もしかすると私が作中の女の子の無目的な行為にも、目的を探さずにいられないので、そう思ってしまうだけなのかもしれない。

 そして、しかし、小説的には、それ以前からまりもは日課として隣アパートの男の子を覗いているのである。
”好奇心と、スリルと、安いワイドショー的覗き見趣味、そんなものが自分の中にあると気付いたときには、げっとなった。・・・・・ただ、自己嫌悪に陥るより、実際にそれをみたすことのほうが断然楽だと思った。だれも傷つかないし、感情のやり取りなんか、面倒ないことは一つもない。・・・・”

また、となりの男の子が、ミカド姉さんと先生が、性交渉を行っているであろう部屋を、熱心に覗いているのに気が附いて、女の子が、その男の子に自分の存在をアピールするかのように、一礼してみせるというラストは、肩透しをくったようで面白くない。作家自身が、何かから逃げているようにも思えてしまった。

というか、この小説自体それほど面白いものとも思っているわけでもないのだけど、自分が浪人時代見かけた、大して美術に関心があるわけでもないのに美術研究所に籍を置きながら、アトリエにはほとんど現れずに過ごしていて、そのくせ、しっかりと恋人を作って、進路を変更していった人達のことを思い出して、感慨に耽ってしまった。皆さん、その後、”ちゃんと生きている”のだろうか?


窓の灯 (河出文庫 あ 17-1)

窓の灯 (河出文庫 あ 17-1)