「ラカンはこう読め!」スラヴォイ・ジジェク

以前どこかで、”神なき日々へのメッセージ”というタイトルでバチカンの美術コレクションの展覧会があった、私自身はこの展覧会を観ているわけでもなくて、記憶しているのはこのタイトルのみなのだけど、もしかしたら常套句であったりして、宗教をしているような人には意味が分るのかもしれないのだけど、私にはさっぱり意味が分らなくて、それ故に強烈に記憶されているのである。

ローマ教皇庁のコレクション展示するのに、”神なき日々”という言葉を使うのはどういうことなのかということで、もともと、そんなものはなかったのだということであろう筈はなくて、では、日々は現在という時間を表していて、昔はあったが最近は見掛けないとかそんな意味だろうかとか、あるいは省略されてはいるけど地域的な限定が含まれていて 日本における日々とかそんな意味なのだろうかとか、いろいろと考えてしまうのである。


ジジェクは、ドストエフスキーの小説を例に上げ書いている。因みに、この小説がまた薄気味の悪い小説のようで、肉体が死んでからも、肉体が完全に滅んでしまうまでの間は人間の意識は行き続けるとかで、墓場で何処からともなく会話が聞こえてくるといった内容みたいなのだけど、

”・・・ミハイル・バフチンは「ボボーク」の中にドストエフスキーの芸術の精髄、彼の創作活動全体を凝縮した小宇宙をみた。バフチンによれば、ここにはドストエフスキーの中心的テーマ、すなわち、もし神と霊魂の不滅がなければ「すべてが許される」という観念がしめされている。「二つの死の間」にある生命のカーニバル的な地下世界では、全ての規則と責任は宙吊り状態になり、死んでいないものたちはいっさいの恥をかなぐり捨て、狂ったようにふるまい、正直さを正義を笑い飛ばすことが出来る。”
”・・・ドストエフスキーが描いている場面が神なき世界ではないことを忘れてはならない。話す死体たちは(生物学的)死の後の生を生きている。このこと自体が神の存在の証である。そこには神がいて、死後も彼らを生かしている。だからこそ彼らは何でも言えるのだ。”
ドストエフスキーは「全てが許される」恐ろしい神なき世界を説明するためにこの場面を描いているのだが、彼が描いているのは、真の無神論的な立場とは無縁な、宗教的幻想である。では「すべてを言う」という猥雑な真摯さへと死者たちを駆り立てる衝動は何か。ラカン的な答えは明白だ。超自我である。ただし、倫理的審級としての超自我ではなく、楽しめという猥雑な命令としての超自我である。このことが、死者たちが語り手から隠そうとしている究極の秘密が何かをめぐる洞察を与えてくれる。恥をおそれることなく全てを語ろうという死者たちの衝動は自由ではない。この状況は、「さあ、これまで話したかったのに、普通の生活の規則と束縛に邪魔されてはなせなかったことが、全部話せる(できる)ぞ」というのではない。彼らの衝動は残酷な超自我の命令にささえられている。幽霊たちは自分たちの猥雑な行動に没頭しなければならないのだ。”

特に”ただし、倫理的審級としての超自我ではなく、楽しめという猥雑な命令としての超自我である。”という部分が引っかかるのであって、ジジェクドストエフスキーの小説を借りて、二十世紀後半以降の世界について述べているようにとれてしまうのである。美術を振り返れば、直ちに、前衛芸術が終わったとされる後から現在に続くところの、尤も、ジジェク的にはそれは終わっていないのかもしれないのだけど、それこそ一部の批評家に忌々しく”面白主義”という言葉が吐かれるような状況が思い浮かばれたりするのである。

また、時代における精神分析のありかについてジジェクの考察も興味深い。

”伝統的に、精神分析は患者が、正常な性的満足を得られることを邪魔している障害を克服できるようにするものだと期待されてきた。もし満足が得られないなら、分析家のところへいけば、禁止を取り除いてくれる、というわけだ。しかし今日われわれは、ありとあらゆる方向からひっきりなしに、さまざまな形での「楽しめ!」という命令をうけている。何を楽しむかは、性的行為における直接的な快楽から、職業上の達成、霊的覚醒にいたるまで、さまざまだ。今日快楽は実際には奇妙な倫理的義務として機能している。人びとが罪悪感を覚えるのは、禁断の快楽に耽ることによって禁止をやぶることに対してではなくて、楽しめないでいることに対してである。こうした状況において、精神分析は、楽しまないことを許されるような唯一の言説である。楽しむのを禁じられるのではなくて、たのしまなくてはならないという圧力から開放されるのだ。”


ラカンはこう読め!

ラカンはこう読め!