日記

性懲りもなく、「世界」なんて雑誌を読んでいて、というかオピニオン誌の類なんて選挙の前でもなければ読まないのだけど、尚且つ、前のときは、文春系とかもう一社保守系の出版社のものを買った覚えがあり、あんまりいい印象がなくて、その後、体調を崩したとき、あんな雑誌を読んだからバチがあたったのに違いないと後悔をしたのを覚えていたので、今回は趣向を変えてみたというわけでもないのだけど。

表紙は橋口譲二の写真で、お婆さんの顔のクローズアップ、頭の天辺が少し切れていて、顎は収まって、首が少し見えているのだけど、おそらく、首は前傾気味のようで、まるで見上げているかのように見えるのだけど、後景は被写界深度が浅く撮られていてよく見えないため、本当はこのお婆さんがどんな姿勢をとっているのかはわからない。カメラの位置が何処にあるのか、水平に撮られているのか、あるいは上から見下ろすように撮られているのか判らないということが、写真に不思議な無重力感というか浮遊感を与えているようにも思える。
比較的顔自体は明るめ、印刷のためかもしれないけど露出がオーバー気味のようで、頬の辺りは白っぽくみえるのだけど、平板に取れているので、写真全体において顔の占める面積が大きいのだけど、それなりに上品にみえたりする。
で、表紙を捲ると、今度はカメラを引いて全身を撮った白黒の写真が出ていて、背が少し曲がり気味で、表紙の写真も撮影時にカメラを見上げて撮ったというわけでもないのだなということが判る(片やカラー片や白黒の二枚の写真を繋ぐのは、被写体のお婆さんの微妙な首の角度ではないだろうか?)。
尚且つ、被写界深度が深く撮られていて、後景の古い喫茶店(このお婆さんの店らしい)の様子がよく見えたりもして、今の目で見れば、古めかしく少し装飾的にも見える椅子が並んでいて、尚且つ、その椅子には間に合わせたかのように座布団のようなものが置かれていて、尚且つそれが背もたれに紐で固定されていたりして、仮設でありながら心地よさのために工夫されて固定されてしまったことを思わせたり、お店の中の太い木の柱の一部が削られて塗料がはげてしまっていたりしながらも、それが放置されることにより、無意識的に表現として採用されてしまったかのようで、それを生活感というかどうかはよくわからないのだけど、小鳥の巣箱のなかのように密でリラックスできそうな内部空間に見せ、これがお婆さんの宇宙というものなのだろうとも思わせてしまうものがあるのだ。
ここには一枚目の写真にはなかったような重力感が復活しており、それがとても昔から続いているもののようにも思えるのである。
しかし、よくみると、入り口に背を向けながらも立っているお婆さんには、お婆さんよりも前にある柱の影が左肩の方に出来ており、まるで彼女が陰の中から現れたのように見えるのだけど、コントラストの強さ、あるいは入り口と反対方向に光源があるということよりライティングにより演出されたもののようにも思えてくる。
そうしてみると、この写真は宮崎某のアニメーションのようなよく出来た作り物のようにも思えてくる。勿論、アニメーションは数限りない枚数の絵より成っているという点では大きな違いがあるにしてもである。しかしそのこと自体は決して攻められることでもはないとも思う。
結果として写真家は二枚の写真にて世界の再創造を行っているようにも思えるのである。

でもって、写真の下には、このお婆さんの名前とか、撮影場所とか、現在の収入とか、今朝のご飯、好きな音楽、今まで行った一番遠いところ、今までついた仕事、などといった項目に短いコメントが書いてあって、更に12行程度のこの人の一人称での自分の生に対する回想のようなことが書かれていて(”58年間ずっとひとり、・・・・終戦になった時皆泣くわよね。私は反対に嬉しくなっちゃって、・・・”)読んでいると泣きたい気分になってしまうのであるけど、同時に、嵌められたような気分にもなってしまうのだけど、これはきっと私が捻くれていることによるのだろうと思う。