「分かりやすさ」の罠 仲昌正樹

そのプロフィールより半ば怖いもの見たさで読んだ仲昌正樹の”「分かりやすさ」の罠”から、別に仲昌でなくてもよかったのだけど、たまたま手元にあったというだけのこと。
しかし、抜き出した下りは、まだ、ありがちな説明であって、もどかしいものも感じる。著者的にはもっと簡素な言葉で断定しているような下りがあったのではないかと思うのだけど見つからない。


ヘーゲルは、「哲学」にとっての究極の真理を「今ここで」いきなり出そうとするのではなくて、歴史的なプロセスのなかで、複数の”真理”がどのように争い合い、その争いの中から、より包括的な視点から構成された”高次の真理”が現れてくるさまを観察する態度が重要である、と主張する。たとえ”新しい真理”によって克服された”古い真理”であったとしても、それによってただちに無意味化してしまうわけではなく、”真理”が展開してきたプロセスを後から歴史的に再構成するうえで不可欠の要素になる。いわば、地層のように、”古い真理”を土台にして”新しい真理”が現れてくるのである。ヘーゲルはそうした歴史的なパースペクティブの下で、独我論的に構成された哲学的な”真理”同士が、「真」か「偽」かをめぐって相互に二項対立的に排除し合う不毛な状態を、より生産的な状態へ「止揚aufheben」しようとしたのである。

ヘーゲル弁証法的な思考によって、孤独なる「私」の意識の”内部”で堂々巡りしがちな自我中心主義哲学の限界を超え、「哲学」を(私の)「外部」へと開いて流動化しようとしたわけだが、その反面、弁証法的に自己展開していく「精神」なるものを”実体”化してしまったきらいがある。彼の『精神現象学』全体を通して探求されているところの「精神Geist」というのは、自我意識を中心に形成される個々の「私」の「精神」ではなく、むしろ「私」たちの意識をその背後から動かしている−「私」にとって−未知なる”何か”である。

この弁証法的な歴史のプロセス全体を貫く「精神」と、自己意識を有する個々の「私」の関係は、物語形式のコンピュータ・ゲームにおける「プログラム」と、「キャラ」あるいは「キャラ」を操る「プレイヤー」の関係に譬えることができる。・・・しかし、ゲームが進んでいくにつれて、それまでの経験知から、キャラとしての自分自身の意識とと、自分を後から動かしているプログラムとの関係が少しずつ読めてくる。そして、ゲームが最終ゴールまで行くと、自分を動かしていた「プログラム」の全貌が明らかになる。
(私がコンピュータ・ゲームに詳しくないためかもしれないけれど、この譬えは的を射ていないように思う。恐らくは仲昌は私以上に、コンピュータ・ゲームを知らないのではないかと思う。もちろん一部省略させてもらっているのだけど、省略した部分があっても、少なくても私にとっては意味不明だった。)
ヘーゲルは、キャラやプレイヤーに相当する「私」たちの知という形で、プログラムが自己自身を明らかにしていくことを、(絶対)精神の自己展開と呼ぶ。