[美術]現代絵画の展望

上野駅内のBreakステーションギャラリーにて、通りすがりに鑑賞。
ギャラリーといっても、飲食店街を分断する吹き抜けの二階部分の回りを回る通路の一辺の壁にショーウィンドウが作られていて、そのなかの方眼の交点に小さな穴が一面穿たれたボードに、絵が掛けられているといった、展示としてはお粗末なもの。
出品作家は、掘、辰野、小林、山口、丸山、山本、大岩、曽谷 といった作家で、こう並べればファーストネームを書かなくて、”現代絵画”なんて言葉に反応するような人であれば誰だか判るのではないだろうか。
ホワイトキューブではない環境で、これらの著名な画家の絵を観れるというのは新鮮な体験かもしれない、とはいっても、通行人が多いから人目につく可能性がとても高い、ということだけがメリットであって、そもそもが下がってみることも不可能な、絵画の展示のためにはおよそ向いていないであろうスペースに、なんで今更この人達の作品を並べたのだろうという気がしないでもない。
また、商業施設のなかで、商業美術から借用されたかのようなイメージの編集法を用いた絵画を観るのはもしかしたら厳しいものがあるのかもしれない、そういう意味においては美術は商業美術に必ず遅れるものと考えられるのだ。
しかし、”新しい感覚”とか”現代風のセンス”といった言葉で、寂しがりやの美術ジャーナリズムは商業美術の後追いをつねに奨励してきたようにも思えて複雑ではある。
残念ながら、孤独死を恐れずに描いているかのような巨匠さんの作品だけに気が惹かれてしまった。
燃え尽きるのであれば燃え尽きてしまえばいいというのは無責任なものいいなのかもしれないのだけど、人生と芸術は本来別問題なのであるとも思うのである。
サッカーで負けても人生は続く、”それでも人生は続く”という言葉は確かになにかを言い当てているのだ。
というか、少なくても私がいた20分くらいの時間の間、絵の前を通る人は沢山いたのだけど、絵に目を向ける人は全くいないようで、だったらそれでもいいではないかという気になってしまったというのが本当のところなのかもしれない。