通りすがりに、昔といっても、21世紀にはいってから行ったことのある日本橋三越傍のギャラリーに寄ろうとしたら、自転車屋さんになっていて驚いた。賑やかな場所でもその方が商売になるらしい。僕の関わった展覧会の盛況ぶり(勿論、僕の手柄ではない)を思うと不思議な気がしないでもない。作品が売れなかったにせよギャラリーに損はさせなかった筈。
辺りのギャラリーも記憶とはすっかり変わっていた。その中で交通事故にあったかのようなショッキングな“絵画”がちらほら。悲惨な情景が描かれている訳でもないのだけどショックを受ける。そんなことはもうわかっていると思いつつ反復に付き合わされる、というのは言い過ぎで、僕はすれ違ったに過ぎないのだけど、この感覚は前にもあったという感覚があり、前もこの人だったと複数軒にて思った。
学生時代に田村画廊主から借りた本にニューマンの絵が黄金比を求める文章があった。著者がその研究を極めたのか否かわからない。よくにた話として、ポロックの絵画の絵具の滴りが人形をしているという研究もあり此方はそれなりに拡がっている。ギリシャの神殿は人体の比率を使っているから、アジアの神殿と比較して軽やかなのであるとしてきた彼らの自己規定にとってニューマンは破壊的であるように思えたのだ。しかし、そこに黄金比があれば救われる(なにが?そして、誰が?)と思っていたのたけど、マーデンのような人に補われて不要になったということなのだろうか。