雑記

リルケが19世紀の最後の年に書いたクリスマス本に、神の訪れを待つ子供たちのよるべない気持ちを、大人になったなった語り手が追想する話がある。
大人になった語り手が、相手に再会すると、語り手の想いとは裏腹に、相手には、子供のころはそんなものは信じていなかったと云われる。しかしながら、その後、イタリアに行って古美術(?)に接した経験から、神がかつてはたしかにいられたということを、身に感じたのだと、続けざまに云われ、語り手は相手と共にその存在の不在と期待にみちたよるべなさを再確認するにいたることになる。

そもそもが近代社会は、当初より人をよるべない気持ちにさせる性質を有していたのではなかったのか。 そういえば、テスト氏すら、存在し難い人物といういい逃れ付で、構想されていなかったかと、本棚をひっくり返してみたのだけど、これがまた見付からない。