日記

 画廊とかギャラリーとかいう社会的メディウムというものが、少々、うざったく感じられることが多くて、そういう意味では、web空間と相性のいいデジタルカメラというものには、期待をしたくなるのだけれども、相変わらず画廊に足が向くということは、そこに、なにか代替できないものもあるのだろうとは思う。


 最近、画廊で写真家さんとお話をさせていただいていて思うことは、自分の写真に関する基礎知識の少なさであって、たとえば、私は、ついこの間まで、シノゴとかバイテンとかいう言葉の意味を知らなかったのである。
親切な写真家さんに、シノゴというのは、ネガが”このくらい(実際に手元にある紙をさして)”あるんですよとか、バイテンは更に大きいですとか、ヨーロッパに行くと、若干サイズが変わるんですとか教えていただいて、はじめて知ったりした。
あたかも、魔術のようにしか思えなかった写真が、大判カメラで撮影されていると聞いて、なるほど、自分のカメラでは撮れなかった訳だと、ある意味、安心もした。というか、写真の縦横比で、大概の人はネガのサイズくらいのことはわかるのだろうけれども、私はわからなかったというのが、そもそも間抜けな話で、蛇腹のついたカメラなんて、専門家の使うもの、自分には縁のないものと決め込んでいたために、自分が観る写真にまで、それらで撮影された可能性を考慮することができなくなっていたのである。
 更に、写真家さんに、自分が今まで見てきた写真の話を、いろいろお聞かせいただいていると、その多くが大判カメラでとられたものであるようで、ちゃちなカメラでいかに頑張ろうと、解像度というレベルで、そもそもが、どうにか成るというものではないということがよくわかった。勢いあまって、トヨのカメラの値段を調べたりまでしてしまったのだけれども、どうにかできるものでもなくて、なるほどね、というところに留まっている。