日記

あまりに、無邪気に写真をとっていると自分でも思う。
対象は、二の次だとかいいながら、実は対象にたいする思い入れが強烈にあるのではないかという気がしないでもないのだけど、あるいは、絵を描く中で押さえつけてきた釜の蓋が緩んだのかとも、少し思わないこともないのだけど、考えてもしょうがないことで、他人に迷惑の掛からない範囲であれば欲望のままに行動をとってもいいのかとも思う。





当然のことかもしれないのだけど、ぶれた写真に対して苛立ちを感じるようになってきた。
私のカメラは所詮携帯カメラなので、ディスプレイが貧弱で、PCに落としてみるまでどんな絵が撮れているかということは分らなくて、これは明るい屋外で撮影しているときと、くらい環境で撮影しているときに顕著であって、本当に不便なのだけど、PCで開いたときに、画像がぶれているとガックリと落ち込むのである。
澄み切った画像が、何かに浸透されているという感じが、とても不思議で面白いことのように思えてきたということかもしれない。
と書いてみて、デ・クーニングの”女”を思い出したりもした。写真の世界にて意図的にぶれた写真が撮られることがあるとすれば、そこにはホームレスレプレゼンテーションと同じような矛盾があるのかもしれない。

かといって、夜中に三脚をもってうろつくのは、流石にあやしまれるのではないかという気がしないでもなくて、暫く自分なりに考えてみる必要があるのかもしれない。