日記

電車で隣に座った頭のすっかり白くなったオジサンが膝の上に開いたノートPCにて、映画を観ていた。フルスクリーンであることもあって、私からも見えてしまうのだけど、牧神やら半人半馬やら、半人半魚やら、まるでピエロ・ディ・コジモの絵が動いているようで、目がはなせなくなってしまった、恐らくはナルニア国物語だろうと思った。さすがに映画になったことぐらいは知っていて、大したものだと思うのと同時に、軽い失望もあるわけで、本を読んだのは小学生の頃なのだけど、そのくらいの年齢というのは見ることに対してとても強い欲望を持っていて、本に出てくる怪しげな生き物やら風景をなんとしても見てみたいものだけど、絶対不可能なことであるのだろう思っていたのを覚えている。それが自分が生きているうちにCG技術の発達で観れるようになってしまったのである。

でもって、今現在、二作目が上映されているということはシリーズを全て映画化するということなのだろうか、とすれば、南方の強国であるところのカロールメンをどう表現するのだろうということが気になったりする、やっぱりカロールメン人は浅黒い肌で使う剣は三日月刀だったりするのだろうか?あるいは怪しげな神を崇拝の対象にしているのだろうか?
本が書かれた当時の英国あるいは西欧社会においては異文化のステレオタイプだったイメージなのだろうけど、今では難しいものがないのだろうか、それとも具体的に宗教が特定できるイメージさえ出さなければ問題ないのだろうか。

ルイスやトールキンのようなファンタジイ小説の映像化というものを考える時(実際にはルイスのものについては未だ話しがそこまで進行していないのだけど)、戦争の相手の描き方に執筆された時代の世界情勢が反映されているのか、独特の歪みを感じることがある。勿論、言葉の上で既に歪んでいたものが映像化される段階で更に歪むのだろうけれども、ロードオブザリング中の、黒門の前で小人が岩影(?)に隠れてモルドールの兵士を覗く恐ろしげなシーンで、顔をベールに隠した兵士がアジア人のように思えてならなかったのを覚えている。というかこの映画自体、CD/DVDショップの店頭のディスプレイで観ただけなので確かなことはいえないのだけど、そういえば、あの時アメリカは既に戦争に入っていたのだなと今にして思う。見覚えのある親密なイメージで満ちている楽しげな仲間たちに対する、ぞっとするような異者の筈が、そこに内なるもの、例えば忘れていた身内の祖先の面影のようなものの外在化をみるということであれば、なにを今さらというようなありがちな構図ではあるのだけど、そもそもが子供向けの読み物やら映画やらについてとやかくいうことは無粋なことなのかもしれない。