「ジャクソン・ポロック」藤枝晃雄

去年か、一昨年に、青山の画廊のギャラリストさんとお話させて頂いたときに、政府が美術にお金を出せば状況が変わるのではないかと仰られていて、更にドイツは大きな国際展を開くことで観光収入が増えてもとが取れているとのことであったのだけど、事の真偽を確認することができないままに時間が過ぎてしまった。というか、申し訳ないのだけれども、私にはあまりに現実離れした話に思えたので、調べようという気になれなかったのが本当のところだったりする。

でもって、直接は関係がないのだけど、藤枝晃雄の「ジャクソン・ポロック」を読み返していて、13頁に下の記述があったので、一応メモしておく。驚いたのはポロックですら、今風にいえばバラマキの恩恵を受けていたということで、雇用促進局から月給を貰っていたということと、彼の絵画に直接的な影響を与えた壁画制作は、ニューディール政策の関連なのかよくわからないということで、抽象表現主義ニューディール政策美術部門の成果と短絡的に結びつけたい気持ちになることもあったりもするのだけど、留保をつけるべきだろうか。
ここらへんについて「芸術のパトロンたち」高階 秀爾にも記載があるらしいので、機会があればそちらも読んでみるべきなのであろうとは思う。

でもって、wikiで”連邦美術計画”を確認をすると、”連邦美術計画によって5000人〜1万人が雇用され、20万点もの作品が制作され、さまざまなポスター・壁画・絵画・彫刻が作成された。それらの作品は公共機関や学校や病院などに飾られ、2000以上のビルの壁面を覆い、国内で最も目立つパブリック・アートがいくつも誕生した。”とのこと、壁画の制作もその範囲で行われたということなので、シケイロスがその一貫のうちで壁画制作を行ったとしても不思議ではないのだ。


ポロックは、1930年代の中頃から貧困と急性アルコール中毒に強く悩まされることになった。もとより、この大恐慌下にあって貧困は彼のみならず多くの人々につきものだった。しかし、彼は、若い芸術家を結びつけ後年の抽象表現主義を生む母胎となったニューヨーク州の緊急救済局[4]と政府のニューディール政策の一環であるWPA/FAP(雇用促進局・連邦美術計画)[5]に職を得て、ささやかながらも窮乏から逃れえたばかりか、自己の制作に励むことすらできたのである。シケイロスが主催する「実験公房」[6]に入ったのもその頃(1936年)であり、WPAのニューヨーク計画の一部である市美術会議テンポラリィ画廊グループ展(1937年)には師トーマス・H・ベントン風の<綿つみ>という作品を出品しWPA/FAP画廊グループ展(1937年)(?)には水彩画を出品している。

[4] ポロックは最初、石切り工として、1ドル75セント、ついで石切り工の助手に格下げられて85セントの時間給で雇われた。
[5] Works Progress Administration/Federal Art Project の略称。1935年の設立され、43年まで存続した。「WPAの欠陥は過大に強調されているが、それらは五年間に最小限140万人、多い時には330万人に仕事と生活の糧を与えた厳然たる事実を前にしては、まったくとるに足らないことである。その事業計画は国の資産をはかりしれないほど豊かにし、それが建設した学校、衛生施設、娯楽設備によりその地域の社会生活が一変したようなところも多い」(「ニューディール後半の成果」新川健三郎編「ドキュメント現代史5・大恐慌ニューディール平凡社 1973年 WPAは、また多くの芸術家を救済した点でも意義深い。なお、ポロックイーゼル画部門で、最初月給103ドル40セント、後に週給95ドル44セントで働いた。
[6] 1936年開設。シケイロスはここでコミュニズムのデモのための旗、壁画のための新しい技術とメディアを探求した。またスプレイ・ガン、エア・ブラッシュ、ポロックがオールオーヴァの絵画で活用したデュコをはじめとする合成塗料、ラッカーなどの技術的実験、オートマティズムの表現実験を試みた。・・・


かといって、日本は大きな政府を目指せなんて主張するつもりは毛頭ないのだけど。