日記

 昨夜 遅くTVを点けたら、千葉TVでプロレスの録画を流していた。日系メキシコ人(?)3人組と日本人3人組の6人タッグマッチというプロレスならではの訳のわからない試合形式なのだけど、これがボンヤリとみていると案外面白くて思わず一試合まるまる観てしまった。
 今でこそ全く関心を失っているのだけど、それこそ、プロレスが金曜日の夜八時に放送されていた頃は、私も熱心な観客で、会場にも何度も足をはこんだこともあったのだけど、ある種の毒を含んだ如何わしさのようなものが、すっかりと魅力を失ってしまったのは、やはり、ガチの格闘技の興行が成立してしまったからなのではないだろうか。
勿論、プロレスがどの程度かは知らないけれど八百長であることは皆知っていたわけで、”それくらい、知っているけど、ガチは興行として成立しないであろうから、しょうがなくて代替物としてプロレスを観ている。”という言い訳をもって観ていたわけで、であるから”ストロングスタイル”なんて言葉が流通していたり、”ガチなプロレス”としてUWFが妙に受けたりしたのであって、はじめから八百長の存在を否定するのであれば、”ストロングスタイル”なんて言葉自体流通の余地はないのである。
 格闘技の興行のある程度の成功の結果、プロレスに残ったのは昔ながらの聖典劇であって、さすがに自分が聖典劇の観衆であるということのいたたましさに耐えられる観衆は少なくて(それはとりもなおさず自分が貧困層であることの証になってしまうからである。あるいは、数年前の総選挙時に××劇場が観衆として選んだとされる”B層”という言葉を思い起こしてみればよい。)、プロレスには地方局の深夜の時間帯しか割り当てられなくなっているということのようにも思えて感慨深い。
しかし、それがファイトそのものでない、現実のファイトでないにしても、現実をそこによむことは可能なわけで、であるからこそ、バルトは”レッスルする世界”を書けたのであるとも思うのだけど、私にプロレスをネタに気のきいたことを書くことは聊か難しいようだ。
 しかしながら、随所、例えば、マットを斜めに駆け横切った勢いで、そのまま2ndロープの上を走ってコーナーを横に跨ぎ、方向を変えながら対戦相手に攻撃を加える、そのアクロバティックな動作が何度も繰り返される時に生まれる空白、知的且つ遊戯的な動作のなかで、攻撃=”相手にダメージを与えること”という本来が限りなく希薄化されていく様などには感動を覚えずにはいられなかったりするのも事実なのである。