「レヴィナス入門」熊野純彦

 なにもかも消えてしまって、なおたんにある。イリヤの経験は、灯り一つない夜の闇の経験、しかも子どもが経験するそれに似ている、とレヴィナスはいう。
 闇に目を凝らし、微かな音に耳をそばだてようとしても、なにも見えずなにも聞こえない。にもかかわらず「あたかも空虚が充たされ、沈黙がざわめきだっているかのように感じられる。闇がある。それはしかし「存在者」でも「無」でもない(ネモとの対話)。
 ベッドに入って、なお眠れずにおきつづけているとき、私の意識はしだいに闇そのもののなかに溶け出してしまうように感じられる。私じしんの身体の輪郭さえ闇のなかであいまいとなり、意識は透明にさえわたっていながら、透明となることでむしろ夜そのものととけあってしまう。私が起きているのでは、もはやない。「目覚めているのは夜じしんである。<それ>が覚醒している。」・・・・


とても詩的で、レヴィナスの文章と良く響きあっていて解りやすい解説のようにも思えるのだけど、不眠を、単に意識から視覚を奪った体験のように考えてしまうと、なにか、また違う話になりかねない。
電灯を点けたままにしても、不眠症は不快なのである。(”眠りが私たちの求めをかすめて逃れ去るそんな時”と書いている以上、レヴィナス不眠症、あるいは意思に反して眠れない時のことを書いているのだと思うのだ。)
そういえば、リー・ウーファンを初め、哲学を好む抽象画家には、唯触覚的といってもいいような絵を描く人が多数いるのも案外同根の理由があるのかもしれない。
それは、何かを言い当てているし、何かの説明になっているのである。
そういう意味で、個別の存在者を描くのではなくて、存在そのものを描きたい、とかそういう欲望の発露の”一つの形として”唯触覚的な絵があったということは、よくわかるような気もするのである。