フェルメール

随分と日が経っているけど、フェルメールも観に行っている。
この画家については、もともと時代の近いレンブラントシャルダンに比して、強い関心を持っているわけでもなくて、しかしながら世間のこの画家に対する関心は高まる一方で、私が高校生の時分にはこの画家の絵の図版を探すことすら難しくて、美術系の専門学校の図書室やら美術館の図書室でやっとみつけることができるという程度の知名度しかなかった筈なのだけど、今や街の小さな本屋でも図版の入った新書を見つけることが出来たりする。

絵に対する言説も随分と増えて、昔だとカメラオブスキュア絡みの話ばかりでフォトレアリズムの元祖的な書かれ方をしていたのだけど、最近だと、アレゴリーを読み取ろうとしたりとか、あるいは当時の社会における女性のありようを読んだりとか、当時のオランダがカソリック教会も貴族もいない社会であることから市場に向けて描かれた絵の初代世代という見方もあるようで、それぞれ読み物としては面白かったりもして、簡素な絵に、それほどの面白味を見出せればどんなにいいことだろうと思って観にいった。
因みに、フェルメールの絵自体は初めて観た訳ではなくて、”青いターバンの少女”を何処かでみたことがあるような記憶があるのだけど、思い違いかもしれない。

六本木の美術館は例によって混んでいて、壁に並んだ小さな絵の前に行列を作って、延々と画面の前を横切っていくような観方を強いられるのだけど、途中、沢山陳列された版画の前でいらだったお客同士が小突きあい怒鳴りあいを始めたりすることもあって、とてもエキサイティングだった。
というか、作品のサイズが小さいから壁から離れることができないということがこの息苦しさに繋がっているのであろう、そんな展覧会で一箇所だけ、柵が設置され強引に壁から引き離されるところがあって、そこが”牛乳を注ぐ女”の前であったりもする。
しかし、絵の内容的にはそれでもいいのかもしれないと思えたりもするから不思議なのである。
要は、今回の展覧会で複数枚展示されている同時代のオランダの風俗画家の作品に比して、”牛乳を注ぐ女”は悪くいえば大味な絵であって、何かが細かく描きこめれていたり、テクスチャーが繊細に織り込まれているといった風情をもつ作品ではないのではないのである。
画面最奥には、少し粉っぽい白を塗りこまれている壁があって、逆にパースがついているようにも見える机が手前にあり、その間の圧縮されたかのような空間に女がいて器にミルクを注いでいる、机の上には籠に入ったパンがこれ見よがしに彼固有の技法でハイトーンの点をうつことで狭い領域内のコントラストをあげて豪奢に描かれるといった感じで、やっぱりパンは聖体なのだろうなと違和感もなしに思ってしまった。
難点としては、対比のために明るいけれども鈍く描かれざるを得なかった壁が不細工に見えるのが、もう少し何とかならなかったのだろうかという気がしないでもないのである。
また、画面中に、感情移入できるものが、これは必ずしも人物とか生物といった対象ということでもないのだけど、意外と少ないようにも思えて、そのことが、少なくても私にとっては取りつく島のなさを感じさせるのかもしれない。
というか、同時代のほかの絵が予想外に気を惹くものであったために、フェルメールの印象がかすんでいるということもあるのだろう。機会があればあれらの画家の作品をじっくりと見たいものだと思う。