日記

経済学の勉強をしたであろう人なら大抵の人が知っている有名なイギリスの美人コンテストがあるらしいのだけど、美大出の私は最近まで知らなかった。(学がないということは寂しいことだ。)

新聞紙上に掲載された100人の女性の顔写真の中から読者が投票で六人の美人を選ぶという、一見するとなんの変哲もない美人コンテストなのだけど、大変な講評を博したのは、ヒナ壇に座った審査員が一定の基準のもとに選考をおこなう通常の美人コンテストとは異なり、読者からの得票がもっとも多く集まった六名の美人に投票した読者に多額の賞金をあたえるという、読者参加の度合いを最大限にする趣向を凝らしたからとのこと。

新聞読者がこの美人コンテストに参加して本当に賞金を稼ぎたいと思ったら、いったいどのように投票すべきであろう、
”美のイデアを体言しているように見える顔に投票しても、自分にとってもっとも美しく見える顔に投票しても無駄である、何故ならば、このコンテストには自分と同じように賞金を稼ごうと思い、じぶんとおなじように一生懸命に戦略を練っているひとが多数参加しているからである。”というのが経済学の教科書の見解である。

しかし、本当のところはどうであったのか、読者に賞金を出す場合と出さない場合でどのような違いが出たのか多いに知りたいのだけど、それ以上の資料を見つけることはできなかった。
このコンテストが今に至るまでかなり有名であるということから逆算して、相当ヘンテコな結果になったのだろうと思うしかないのは私にとっては残念なことだと思う。

ケインズの言葉を借りれば、
それぞれの投票者は、自分が美人とおもう顔ではなく、自分とまったく同じ立場にたって誰に投票しようかと考えている自分以外の投票者の好みに一番合うと思われる顔に票をいれなければならない。
それは、自分が一番美人であると判断した顔を選ぶというのではなく、平均的な意見が本当に一番美人だと考えている顔を選ぶというのですらないのである。
更に第三段階にいたると、ひとは、平均的意見が平均敵意見をどのように予想するのかを予想するために全知全能を投入することになる。
そして、第四段階、第五段階、さらにはヨリ高次の段階の予想の予想をおこなっているひとまでいるにちがいない。

最初から転売することを念頭にいれて美術作品を購入するという場合の思考というのは、この美人コンテストの読者の思考に近いものになるのではないだろうかと考えるのは、あまりにベタかもしれない。
もともと美のイデアなんてものがあったのか、あるいは、もともと主観的な美の基準を内面化している個人というものが存在するのかという疑問はあるのだけど、少なくても美術市場はそのフィクションとは関係のないところとまでは言わなくとも、そのフィクション(?)から一歩あるいは+n歩ほど退いたところにて作動しているということになるのかもしれない。