日記

デュシャンが若い頃に描いた絵が、複数枚、上野の都立美術館で開かれている展覧会にて陳列されていた。そのうちの一枚、椅子に座った父親を描いた絵をみていて、やはり椅子に座った人物を描いたセザンヌの絵を思い出した。ある種の逡巡と持続、結果として現れた像のゆがみ、そんなものに類似を感じるのだ、あとは、物体が透けたかのような彩色。しかし、此処には大きな差異もあるわけで、基本的にデュシャンは白と黒で絵を組み立てるかのようで、色彩の使われ方が二次的なように見え、要は古い時代の絵に見えるのである。この絵が描かれたのが1910年で、もう一枚の、既にキュビズムのスタイルに近いチェスプレイヤーの肖像(ゲームといってしまうのであればセザンヌはトランプをする人を描いているのでこれも類似といえば類似だけど、シャルダンだってトランプ遊びをする人の絵を描いているし、すくなくてもトランプに関してはありがちな画題であったということなのだろう、)が1911年に描かれている。

デュシャンという人は割合と真面目に時代の先端的な表現を追及していたということなのだろうか、(勿論ここら辺の絵は同時代においては発表の機会すら与えられていないのであるのだけど、)兄二人が美術家ということで(ジャック・ヴィヨンについては、ドライポイントでカッコいい作品を作っていて、いつか現物をみたいものだと思ったことが嘗てあるのを覚えている。)嫌が負うでも、意識せざるを得ない環境であったのかもしれない。

この後、第一次大戦があり、フランスは戦勝国となり、とんでもない賠償金をドイツからせしめ、パリの美術業界も大いに潤って、藤田のような画家が画廊と8000枚の絵の契約を取り付けるようになったりもするのだけど、意外とその後のフランスの美術については、モネやボナールそれにマチスのような一線を退いたかのような巨匠と、それこそ1930年代のミロ(今回来ている二枚の絵は図像性が強くてそれほど面白くなくて、エクゾチックなイラストに見えてしまった。)やマッソン、マッタのようなマイナーなものにしか関心が持てなかったりもして、本当のところどのような状況があったのだろうと思ったりしないこともない。