日記

一昨日、テレビ東京で放送していた番組にて、上海のアートフェアの様子が写っていたのだけど、なんでもナラミチの7000万円の大きな絵に購入希望者が殺到したとかとかで、アートというのはつくづく判らないものなのだなと思った。
ナラミチの作品を何点も既に持っているとかいう背の高い女性が、”転売しないから売って欲しい”とか言っていて、画商も、アーティストからすれば、自分の絵が直ぐ転売されるのは悲しいことだとか、白々しくも言っていて、こういう発言がでるからには逆に言えば、このようなフェアにでている多くの作品が短期のうちに転売されている状況があるのだろうとなんとなく思った。
当たり前のように、この作品をアートとして、お金と交換するようなお金持ちが多数いて、交換の度に個々の主体が、この作品をアートとして判断しているということは本当に不思議なことのように思えるし、また、逆に交換されることのない多くの同時代美術作品のことを考えると、とても重たいことのようにも思えてくる。
一時期よく美術館で見かけた、なんでこれがアートなの?といったような啓蒙的な企画がつまらなかったのは、如何にも学芸員に後つけされた解説が、この交換の謎について迫ることを欠いているように思われたからではないだろうか?

昨日、六本木から少し外れた場所にあるギャラリーを覗いたら、やはりこのナラミチのドローウィングを額にいれて飾ってあった、そのほかにあった作品は、ムラカミタカシの工房出身の女性作家でコンピュータを使って描いた女の子の空想世界といった感じのドローウィング数枚と、やはり硬い線描で女の子や幽霊が詰め込まれるように描かれた絵、あと自動車の車輪を真横から描きながら、この車輪に乗っているボディーが自動車の最前部から車輪までの部分と、自動車の最後部から車輪までの部分の合成となっているトリッキーな写真的タッチの絵とかが並んでいて(この作品が中では一番心惹かれました。)、要は昔のポップアートのなかでもBクラスとされていたような部分がそのまま復活したような雰囲気で、あたまのいい批評家さんがなんと言おうが(見え透いていてときに的外れのようにもみえる詐欺を認めてしまうのはインテリゲンチャにとっては居た堪れないことであったというのが本当のところだったのだろう、美術団体のような集団詐欺から、独立系詐欺への移行、詐欺と書いているけど単に比喩的に使っているのであって、そこに犯罪をみているわけではない。)、こういうものは有効(?)なのだなと改めて思った。そして、自分も二十歳のときほどこういう作品に反発を感じることもないのだけど、かといって強く関心をもつかといえば、そんなこともないのであって、そもそもが私は貧乏人であって、本来であればアートと無縁であるべき人間である。

一方では大げさに”謎”と書いて、他方では”見え透いている”と書いているのは矛盾である、しかしどちらも正直な気持ちなのである。例えてみれば、見え透いているのは手口なのであって、蛇口をひねれば水が出るということであって、その仕掛けはわからなくても何も困らないといえば困らないのだけど、水の出の悪くなった水道の使用者は、その仕掛けについて考え込んでしまうのである。


伊井直行の”濁った激流にかかる橋 ”が文庫本になったようだ。本屋でちらりと見かけた。
自分が、本当に若い時分に、この人の書いた主人公が蛙に変えられるという青春小説を読んだということが、この小説家に対する関心の基底にあって、今となってはどうでもいいような私的な体験と分離してこの人の書いたものを読むことが出来るかということが気になっていて、勿論、それ以降もこの人の小説は何冊も読んだ筈なのだけど、本当に、今現在、1500円とそれなりの時間を費やすことが自分にできるのだろうかと、お金のない狐は葡萄について思いをめぐらすのである。