(清澄白川)

小林正人展を観にいった。
なんというか、作品を購入しないのに画廊を覗いてウダウダと文章を書いたりすることも無作法なことなのかもしれないのだけど、あまりに同時代美術というものが話題に上ることが少ないようにも思えるし、たとえ商業であるとしても余りに語られることが少ないというのも結果としてはよくないだろうとも思うので極私的な感想を記す。

ポロックやら、ステラやらは、アルミニウムのようなメタリックな色彩を使用している(そういえば桑山の作品でも銀色のパネルを使ったものがあったけどあれは塗布されたものなのだろうかそれとももともと金属板だったのだろうか?)。あるいは、宗達も銀泥やら金泥を使用していている。
後者について近代的な造形美術の枠組みの中でなにかをコメントをするのはやはり無理を感じるのだけど、前者については、そもそも無機顔料には金属から作られたものも少なくないのだけど、歴史的にみればそれらは比較的新しい顔料が多くて、通時的にも連続性を確保しながら意味が刷新されている経緯があったりもする。ポロックやらステラの銀や金が赤や青とちがってみえるとしたら、暖色とか寒色とも分けがたい色彩が触覚性を有した質をもった領域として見えてくるということではないかと思う。その使われ方、画面の中での配置のされ方や塗布のされ方によって、分析的キュビスムの絵で多量に使われた中間色の外延であるかのように見えてくるのだろうと思われる。

波を打って張られたキャンバスに機械的に塗られ銀色、正確には銀色を機械的に塗布されたキャンバスを壊れた木枠に波打たせて張るという行為。
しかし、何故、それが”行為”として見えるのだろう、枠に波打たせて張られた銀色を塗布された布でもいいのではないかとも思うのだけど、作品を特定の作家に帰属させてしまうことが”行為”という言葉を連想させてしまうのだろうか、この特定の作家という部分をためしに消去しても、行為という言葉がでてくるかなと考えると、逆に枠の壊れ方がとても作為的に見えてきたりもする。
ためしに壁に顔をくっつけて作品の側面から覗いてみると、正面から観てるぶんには壊れているかのように見えていた木枠も金具でしっかりと固定してあったり、正面からみて突飛に鋭く飛び出しているように見えた角も実は金具で作られたものであったりもして、一見”壊れた木枠”に見えたものも”壊れたようにみせるために作られた木枠”であるのだなと思えてきてしまった。
勿論、商品としては、その方が購買者には安心感をあたえるのだろうけど、詐術的には釘は使わないとかそういう作法を徹底した”もの派”の作家さん達のほうが上だったのではないかという気がしないでもない。そもそも何故、画材屋で売られている”木枠”が使用されているのかということまでも気になりだしてしまう。歪なパネルを自分で作って布を張るということでは何故いけないのだろうと、実際には作家が行わなかった行為までもが気になりだしてしまうのである。

光を反射する銀色の布が波打っている結果として光を乱反射させているという状態が何かを言い当てているかといえばどうなのだろう、勿論、この銀色はポロックやステラのそれと同じように触覚性を感じさせることがあるかといえば疑問である、それとも、その皺の出来具合が表面に作り出す陰が色彩の代用をなすものたりうるのであるだろうか?
私的には審美的にそれを眺めるということはとても愚かしいことのように思えてしまうのである。
現代美術的な語彙の並べ替えのなかで出てきそうだなとか、”ありそうだな”という感想ぐらいしか浮かばなかったりもするのだけど、それは私がそこら辺の表現にたいして懐疑的であるせいもあるのだろう。
そもそもがこの作品が、”絵画とは?”とか”芸術とは?”というように主語に問題を回収させようとするような分析的な表現としてしか鑑賞のしようがないように思えること、そして、そこに総合やら反省やらの契機が欠けているようにもみえること、そして結果として主語概念が拡張されることがないことがとても寂しいのである。
しかし、少なくても現代美術という分野の状況としては、主語に問題を回収させるような表現が殆どなのであって、そうしてみると、やはり私はこの作品を特定の作家に帰属させてしまっているために失望しているのかもしれない。勿論、この作家は久しくそのような表現を行ってきた作家なのであるのだけど、私が一番最初に目にしたときは、異なる種類の作品を制作しているように思えたのである。