パルマ

コレッジョ、パルミジャニーノ、カラッチ、私のような不勉強の徒からすれば、マニアの対象に属する作家、以前はそれらに関する文章も読んだりもしたが、自分にとってはそれほど強い関心の対象にはならなかったので、記憶を風化させてしまっていた。

大体、ルネッサンスの少し後ぐらいというと、ポントルモのような、技術的に洗練されながら、乾ききったような描写(雑多な感覚を排除してしまったような、ダリからみたセザンヌのリンゴのような、ある形而上学を理解していない人の目には全く鑑賞不能なような描写)を思い浮かべるのだけど、コレッジョの作品はそういうものではないようで、とても素朴にみえた。
あるいは、伝統に従い主題に合わせるかのように人体を捻じ曲げながらも、地の空間が既に”ある深さ”をそなえているがために、どこか筆が余ってしまう感じとでもいうのか、時にほほえましく見えてしまったりもして、このほほえましさというのは宗教的主題と技術的素朴さが結びついた時にどうしようもなく私のうちに喚起されて感情であって、とても嫌らしい感情であると自分では思っているので困ってしまった。しかし、十字架からおろされたキリストの白く輝く体を描いた絵は、モッサリとしてはいても、隙なく構成されて尚且つ人体の描写も、それぞれが相応しく行われているように見えて、見応えがあって、とりあえずは高い入場料を払ったことに関してもとをとれたように思えた。
でもって、素描も展示されていたので、本当のところどうなんだろうと、覗いてみたのだけど、これが、技術的にはこなれているのだけど、恐ろしく不自然のものであったりもして、人体が部分部分ばらばらであって、頭と胸部はとりあえず、同一の人体のものだけど、足は別の人体のものとか、あるいは、この姿勢でこの手はないだろうといった所謂マニエリズムについて云われていることがそのままあてはまってしまうようなものであって、そこから返ってみるとこの人の絵画に関して意図的なものではなく、ベタに素朴な印象を私に与えた最大の要因は油絵の具の使い方、あるいは彩色の仕方にあるということになるのかなと思った。

かといって、技術的にはより洗練された領域にあるかのようなパルミジャニーノが素晴らしいかというと、かならずしもそういうわけでもなくて、基本的に調子を欠き勝ちな明暗で組み立てた形態の世界であって(そういう意味ではエングレービングはこの作家に向いているのかもしれない)、尚且つ、意味の彼方に重き置いた主知的世界で、手前の経験としては工芸に毛の生えたものに接している位のもののようにも思えてしまって寂しいのである。ロッソ・フィオレンティーノの絵にも似たような肌の色合いをもったルクレティアは表面を隙なく描き切った絵だと思うのだけど、ここにも危うさがあるように思われるのは、普段から見慣れている常設展示のレーニのルクレティアと比較してしまうせいもあるのかもしれない、そこにはパルミニジャーノの色彩には欠けている調子があるのではないかと思う。(二枚のルクレティアの複製を買って帰って部屋に飾って見比べてみたいとも思ったのだけど、DVともとられかねないので止めた。)
しかしながら、レーニの師匠筋にあたるカラッチのゴージャスな絵はどうみたらいいのかも分からないようなものだった。
というかある程度以上昔の作品というのはやはり学習の対象というか、意識的な学習なしでどうのこうの云えるものでもないので、気が向いたらもう一度勉強しなおさないと駄目だなというのが正直なところだったりもする。