描きあぐねて、数年間放ってあった絵に筆を入れた。オキサイドオブクロニウムという、不透明な緑色の顔料を使ったのだけど、これも、また、久しい色で、なんで持っていたのかも覚えていない。絵を描くときは、いつも、再現とバリエーションの可能性を考え勝ちになるのだけど、要は、方程式みたいなものとして、思考することに傾きがちになるのだけと、そこから、こぼれたり、はみ出したりしたところにしか、解決がないことが殆どで、趣味にしかなりようがないと改めて思う。
モランディが、元々、彩度の低い一揃いの顔料と、その顔料を塗った瓶を並び替えながら、繰り返し描くことで、結果として追い詰めたものについて、改めて、関心がでてきたりする。
近代に発明された顔料の不使用は、イタリアという古画に囲まれた環境に、粗生涯を通じて暮らしたことによるのだろうと理解できるような気がする。これは、自分にとっては、頭では理解できても、決定的に違和感を覚える点で、例えば、自分の考え、感覚では近代的な顔料でも補色を混色することで、彩度を落とすことも明度を落とすことも、充分可能であり、古代顔料を使用することより、はるかに微妙な色相の差を演出できるからである。 近代の顔料では、目に見える以上に、解像してしまうと言うのであれば、確かにそうで、薄暗い同じ室内、同じ物体を並べ替え、飽くまでその対象物の関係と、織り成す室内の微かな光のあやに引きずられて描くには、古代顔料がむいていたのかもしれない。2011年に地震原発の事故がなけるば、まとめて作品を見る機会があったのに残念この上ない。