メモ”上野理論への違和感”「家族の痕跡」斉藤環

 「フロイト説は近代家族の説明理論としてぴったりのものだったが、逆にいえば、フロイト理論そのものが近代家族の産物であった。近代家族によって形成された理論が近代家族をよく説明できるのは、たんに冗長というほかない。同様に、家族モデルが国民国家をよく説明するのも、冗長である。なぜなら、国民国家は家族モデルによって作られたものだから。」(「近代家族の成立と終焉」九六頁)
 この議論は「帰納」と「演繹」を同一視しなければ成立しないが、それは事実上、困難である。「近代社会」の産物とみなされる理論は枚挙に暇がないが、たとえば精神分析とはほぼ対極にあると言って良いとおもわれる社会システム理論もまた、近代の産物ではないだろうか。システム論そのものは、オートポイエーシス理論のように、カエルの目玉の観察から出発したかもしれないが、それが社会にも応用できるという発想そのものが、近代的なものなのである。要するに、同じ「近代社会」から帰納的に得られた理論には複数あり、またその演繹の仕方にも多様性が期待される以上、ある社会から帰納されて得られらた理論が、つねにその社会すべてを演繹的に説明しうるとは限らないし、仮に説明しえたとしても、それは単なる帰納−演繹トーとロジカルな循環とは言い難い。そのような循環がもし可能なら、たとえば経済学者は、もっとも確実な預言者として尊敬される存在でありえたはずだ。

斉藤環「家族の痕跡」一零八頁。
五行目までで引用されている上野千鶴子の意見は、ミステリーを読むとよく感じることであったりするのだけど、あまりそのような批判は的を射ていないということになるのか。
あるいは、一見、日本の社会には根拠がないように見える外国の絵画を真似たような絵を、そのことによって、ことその段階で批判するべきではないのだろう。
単に態度が近代的であるというだけのことなのだから。