金曜日の夜は、いつまでも電車が混んでいて気が重くなる。

 乗車率が200パーセントは優に超えている、下手をすると250%を超えているようにも見える電車に乗り込む際、正面を向いていると押し返されてしまって乗車できないにも関わらず、後ろ向きに乗り込むとすんなりと乗車できてしまうことが多々ある。
これは、不思議なことであるのだけど、押し返す人は意図的な意思表示を込めて行っているのであって、相手が後ろを向いているなどして、自分の意思を伝達する方法がない場合は、あきらめて空間を空けるということではないのだろうかと密かに思っていたりする。
 大学の頃読んだ本、多分、英語の講義のテキストに使っていた本(”hidden dimension”だったか )にパーソナルスペースとかという言葉があったと思う。
たしか、他人がこれ以上近づくと困る距離、苦痛を感じる距離があるとかそんなことで、人や文化や性別に応じて、この距離が大体固定されているとか、例えば、男性だったら××cmでアメリカ人だったら△△cmとか、そんな具合とかいう話だったと思うのだけど、具体的なことは覚えていない。ただ、読んだ当時に思ったこととして、周囲の人と全く距離のとりようがないラッシュ電車というのは、その説にたてば明らかに苦痛な空間であるということであって、逆にいえば人間としては他人に関心を持たずにはいられない空間であるということになるかと思う。
だからこそ、互いに知らん顔をして、時にヘッドフォンの音楽に夢中になったり、手にした本に没頭したりして、他人に関心を持たぬようして、あるいは、そのことを明示しながら過ごすことになっているのだと考えると理に適っているように思う。(しかし、こんな感覚をあてにしてしまっていいわけがないのだけど、)
子供の頃に電車の中で他人を指差したり、無遠慮に他人をじろじろみて、親にとがめられた経験を持つ人は少なくないのではないだろうか。
私は貴方に関心がありませんという態度を示し示されることで、せめて苦痛を緩和しようという暗黙の了解のようなものがあるのではないだろうか。
問題は暴力事件の発生時などで、そういう時にはネットやら新聞やらに電車の中での無関心について嘆く論が出ることがあるのだけど、電車内空間にあるかのような根本的にややこしい矛盾した二つの命令”関心を持つな””関心を持て”について言及していない論にはどこか物足らないものを感じたりもする。


 関連としては、複数の犬をそれぞれ違う長さの紐を使って繋ぎ止めて、紐の長さを操作したりして、紐の長さ応じて犬が落ち着かなくなる様を、フィルムに撮影した作家がいたような気がするのだけど、これもほぼ記憶の彼方の出来事になってしまっていて、作者の名前すら覚えていない。