日記

松井冬子の絵について、絵絹に岩絵の具で描かれた本当の日本画だという人がいて考え込んでしまった。こんな発言がでるには勿論訳があって、昨今日本風の画題を描いて話題になった絵に、アクリル絵の具で描かれたイラストレーションが多くあったりするからであろうけれども、だからといって岩絵の具をつかったところで、イラストはイラストなのであって、この人(作家本人ではなくて、擁護者)の立場であれば、本当に必要なのは、イラストで何が悪いという開き直りなのではないだろうかと思った。
歴史とか状況とか言い出すと、あるいは現在の状況を歴史的な視点で語ろうとしたりすると、どうしても面白くない作品についても、時間を割かなければいけなくなるような気がするのだけれども、冷静に美術史の本を捲ってみるのであれば、ある時代に圧倒的に支持されながらも、無視されている作品というのは沢山あるわけで、語る人間なり時代なりの主観的な判断に委ねられてしまって一向に構わないのではないかという気がしないでもない。
それを歴史の私物化というのであれば、そもそも歴史とはなんだろうということであって、所詮は縮減の仕方の問題であって、物語と考えるべきではないのかなと思う。物語には物語りの真理へのアプローチの仕方があるのであろうと思うのであって、要は過去から現在にいたるまで、例えば松井冬子が嫌いであるのであれば、松井冬子的とみなされるようなものが含まれない全体を想定すればすむ問題なのである。
その際問題となるのは、そのような体系が他人の支持を得られるのか否かということであって、サティのように信者のいない宗教の教主になりかねないということが問題としてあるのであろう。あるいは、語り手の社会的立位置の問題もあって、自衛隊幕僚のようなことにもなりかねないので注意が必要ということなのであろう。逆に言えば、それ故ウォーホールを省いた美術史を語ることは難しいということにもなるのかもしれない。
数行戻って、語り手と聴き手の主観に全て委ねられているということになるのか、あるいは語り手と聴き手の存在する場に全て委ねられているということになるのか。