日記

祖父の葬儀で、賛美歌を耳にして、自分の葬儀にも是非賛美歌を謳って貰いたいといっていたもう一人の祖父の願いは、彼自身がクリスチャンではなかったせいもあるのだろうけれども聞き入れられず、独り言のようなお経をお坊さんが読み上げる佛式で行われて、お寺の墓に葬られたのだけど、それから何年も経って、地獄の沙汰も金次第というわけでもないのだろうけれども、墓を相続した伯父の死に伴い、お寺に要求されるお布施の額がただ事ではないとの理由によって、祖父母のお骨を伯父のそれ共々公営の墓地に移すことになった。

お寺の墓地というものは、購入する時には当然のことお金がかかり、メンテナンスにもお金がかかり、更に放棄するのにもお金が掛かるというとんでもないものであるということを、この年齢にして初めてしったのだけど、それはおいておいて、転移先の墓地に最寄の駅からタクシーで行ってみて、どうも見覚えがあるのである。これはいったいどうしたことだろうと考えてみて、家にかえってから地図を調べてみて、自分の学生時代住んでいた市の直ぐ裏側、この表現は分り難い、要は学生時代使っていた駅とは反対方向に向って、下宿から歩いていき、、市の境の小川、これが県の境でもあるのだけど、それを超えて、うねる台地を跨ぎ越した辺りに出来た霊園であって、眠れない時など、夜中に歩き回った範囲であろうことが分った。きっと明け方の薄暗がりのなかで何度もみた風景であったのだろうということで、妙に納得してしまった。

お墓を移した責任者であるところの従兄弟は、霊園内にある著名人の墓を案内してくれて、中には墓石に撮影機器の絵が彫られている山田の名の墓石もあったりもしたのだけど、そんなことをしてくれなくても、静かでいい場所であるということぐらいは分かっているとは思っているわけで、社会性の保証など必要ないのにと思いながらも、この儀式に出掛けるのを面倒に思ったことが申し訳なく思えたりした。勿論、墓は生きている者達のためにあるのだから、間違えているのは私のほうで、従兄弟のしていることは全く正しいことなのだとは思うのだ。