日記

「文はその最終のタームを持ってはじめてその意味形成に留め金をかける。それぞれのタームは、他のタームからなる構築物のなかで先取りされているが、また反対に、その遡及的効果によってこれらの意味を確定するのである」「私はフロイトを読む」という文を考えてみる。「私は」というタームを発話しただけでは、あるいは、それに「フロイトを」を加えただけでは、まだ意味は到来しない。「私はフロイトを」という二つのタームからなる構築物は、それらの意味を差し止めてくれる次のタームを更に待望し続ける。(フロイトラカン 新宮一成

キャンバスに、落とされたり擦り付けられた絵の具とて、シニファンといいうるものなのであろうと思う、また、それゆえにこそ好き嫌いはあろうが、ポロックやデクーニングのような絵とて絵画として鑑賞することが可能であったのだろうし、アクションペインティングという言葉もローゼンバーグにとっては不本意な意味合いにおいて、政治的意味合いを消去されたうえで、広く使われ得たのである。
何かが「原因」となり、また「結果」となるのは、それらが一つの「シニファンの連鎖」の最初と最後の項を構成する限りにおいてである。絵の描き終りに関しての発言も上記にあげた作家さんたちにはあったりもするし、実際に作業においても意識的で、デクーニングについては、乾燥の遅くなるような油(ちょうじ油)を使用し、文字通り、いつまでも、絵を描く時間に留まり続けようとしたり、あるいは、描きかけの未だ絵の具の乾いていない絵の表面に紙をのせて、絵を写し取って、絵をもう一枚作るということもしている。
終わりがあるからこそ、遅延が発生しうるのであるし、不可逆的(原因と結果があると言うことはそういうことになる)な作業であるからこそ、作者にとって別れ道の状態でのウツシが必要になるのである。問題は、結果として提出された絵が存在欠如となることを受け入れてないように見られてしまうことにあるのではないだろうか、しかしながら実際にそうであれば、誰も”良い絵”などと云う言葉をそれらに対して発することはないだろうし、単なるジャンクアートの絵画版ぐらいの意識でしか鑑賞され得ない筈である。しかし、デクーニングの多くの絵はジャンクアートのように見えてしまうことがあるというのがオチといえばオチであるのだけれども、彼らの絵を良いとするモダニズムというコンテクストの特殊性について再度考えてみる必要があるのかもしれない。