日記

これは、明らかな手ぶれ写真。
しかし、まあ、少なくても今の段階では、自分では無邪気に楽しむことができる。
暈けた写真やぶれた写真というのは、案外と流通しているようで、見慣れてしまっているのか、思いのほか見れてしまうということはないだろうか。
大概は自分の内面に折り返して鑑賞なんてことをしているのかもしれない。
ある透明で理性的な意思が写真を撮らせているのではなくて、事後的にしかしることの出来ないところの何か不透明なものが、写真を撮らせていているのだと当たり前ように思われているということになるのかもしれない。そういう意味では流行の写真の中には、通俗化した精神分析のような楽しみ方を伴うものもあるかのようにも思われてくる。
あるいは、先々は、このことが、耐え難いことのように思うことにもなるのかもしれないとは思う。