別のブログに14年前に書いたメモを見直す。

このあと、リーマンショックやら、東日本大震災やらがあったのだったか。

バブル崩壊と同じく、大きな不況の前後では、時間的連続性が断ち切られていて、主観的には別世界に吹き飛ばされてしまったかのような想いであったりする。

PKディックの書いた“パーマーエルドリッチの三つの聖痕”という小説を何故か思い出す。

生きるということ大変なこと。


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絵を描こう。

触覚的価値についてメモ
2006/10/01 12:44コメント20
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"絵画の見方”という本はクラークが新聞の日曜版のために書いた文章を集めたものとのことで、1960年にイギリスで出版されたものらしい。
日曜日の新聞に一枚ずつ絵の紹介がのるというのは、日本の新聞も行っている企画で、朝日でも見かけたことはあるし、日経で見かけたこともある。
日曜日と絵を結びつけるものはなんなんだろう。


クラークは、ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンの”十字架降下”を評するのに、”触覚的価値”という言葉をつかっているだけど、この言葉自体についての説明は行っていない。
このくだりには複数の美術史家や批評家の名前が出てくるのだけど、私の教養では追いきれない。
日曜日の新聞を読む大衆がこのくだりを、ふんふんさらさらとよんでいるのであれば、英国人というのは教養が高い人たちなのだなと思ってしまう。

”「教養ある人もない人も、まるで彫刻されたように画面から飛び出して見えるこれらの顔を賞賛しない者はなかったことを述べておこう。」
この一節はアルベルティの絵画論のなかに見られるものだが、この文章がかかれたのは、ロヒールが《十字架降下》を描いたのとおそらく同じ年のことである。
それは一四三五年においてはたしかに真理であり、ロジャー・フライの時代まで、ずっと真理であった。事実、フライの著作にくり返し登場してくる「彫塑的価値」という言葉に、ほかのどんな意味が考えられるというのだろうか。”

”アルベルティは「まるで実物のように・・・・・」とはいわないで、「まるで彫刻のように・・・・・」といった。
そしてそう言うことによって、それぞれの形態が、見る者にいっそう生き生きと体験されるよう故意に単純化されていることをも意味した。”


”事実この聖母の顔は、たしかに絵画における「触覚的価値」の最も偉大な例のひとつといいうるであろう。”

”それはまた、芸術とは「多様性における統一」だといったヴィンケルマンのあの古典的な定義の好例でもある”


フライ”彫塑的価値”
アルベルティ”まるで彫刻のように”
ヴィンケルマン”多様性における統一”


実物から単純化されて彫刻に変換されるされるというプロセスが、絵画の制作のプロセス中に、あたかも存在すると仮定するのであれば、彫塑的価値というのはそのプロセスのうちに発生しうるものということであろうか?(まるでグリーンバーグの”イリュージョン”ということばの説明のように分かるようでわからないものがある。というかホームレスレプリゼーションというのは、舞台を抽象絵画にかえて同じ問題を語っているのではないかとも思われたりする。)

ちなみに”触覚的価値”という言葉は、ベレンソンという批評家が名つけたものとの記述が、ドールスの”プラド美術館の三時間”にある。
また、ケネス・クラークは、ベレンソンの門人であったとのことでもあるので、ベレンソンをあたってみるべきなのだろうけど、訳書を見つけることが出来ない。
また、見つかったとしても高価なものなのだろうということで半ば諦めていたりもするのだけど、そもそも、そこまでこだわるべきことでもないのだろう。


ちなみにドールスは「触覚的価値」について、

”・・・つまり、視覚的錯覚による奥行の表現を達成する価値というか要素のことである。”

”・・・このパノラマ的な要素がわれわれにもたらす生理学的な快感の中に、絵画の絵画たる特質をみいだしたのである。
その魔術的な力、板やキャンバスの表面上に、レリーフとパースペエクティヴの効果、つまり、対象全体を総なめすることのできるわれわれのの視線の能力と、フィクションとしてのある距離を感じ取るわれわれの喜びを現実のものとする力こそ、たぶん、芸術としての真の絵画を、装飾美術から区別するのであろう。”

絵画と装飾美術の区別ということは、大いに気になるところなのだけれども、丁寧に以下のように続ける。

”装飾美術は、一平面上その構成要素を目立つように配置すれば充分なのであり、三次元に対する願望はまったくないのである。”

彼的にはモダーンアートの2/3は装飾美術ということになるらしい。(ちなみに、この文章がかかれたのは1948年)

また、ドールスは構図と触覚的価値が対立するかのように論を展開している。

”触覚的な価値が、彫刻の場合がそうであるように、不可避的にレアリスムという理想にむかうのに対し、構図の魅力ははその観念論にあるわけで、それゆえに絵画が建築に接近するものだからである。”

そして、この二つ要素の同時利用の不可能を主張する。
しかし透視図法というのは構図の問題であり、それも画面に奥行きの幻想を与えるものである。

ドールスは以下のような対立をかたる。

ミケランジェロ←→ベラスケス

ミケランジェロにおける筋肉の肥大は死体解剖の自由が解剖学の発達を促したときにはじめて可能となったレリーフのある本物らしい造形性を必要としたことはいうまでもない。
・ベラスケスの古典主義によって柔軟性を与えられた地平線の開放は、その前にパースペクティヴの発見の結果として画家達が風景へ向かっての衝動を感じる必要があったことは言うまでもない。

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